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そのひび割れに似たものを、彼に話すことは出来ないまま。
僕は自分が生まれた日を過ぎるのを待つばかりだった。
このまま答えの出ない日を送ることになる。
心にひびを抱えたまま、知らないフリを続ける。
それは誰のためでなく、自分が彼と生きるために必要な代償だと思っていた。
誰にでも隠し事の一つや二つはあるもの。
頭では理解している。
それなのに、こんなにも深い穴が空いたような気持ちになっているのはなぜなのか…。
日々の日常を壊したくない。
真実を聞いて変わってしまいたくない。
それを理由に聞く勇気が出ないまま、一年が経った。
その時、答えはなんの前触れもなしに、訪れたのだった。
「今日も最高だったな。あの花屋のお嬢さんは」
「ええ、なぜかいつも知識の張り合いになるんですよ」
オキザリスとともに誕生日を迎えたあの日。
おじさんに当時出来たばかりの花屋へ行くことを約束したのだった。
父の日に贈ったブルーローズを買いに行ったあの店。
おじさんは情報屋として働いている割に、
何気ない日常の一部を占める情報が不足している時があった。
自分の好きな行きつけの花屋があるためか、
それ以上のことを知ろうとも望もうともしない。
だから、僕が彼にとっては好きなものの情報提供者になっている。
ほんとに、おじさんが集めているのは情報なのか。
それが何なのか。どう言ったものなのか。
自分の好きな花を買う場所も知る暇がない、
そんな仕事は一体どんなものなのか。
十年以上の歳月を経ても、大部分を占めるものは何一つ知らない。
「あんな面白い店は久しぶりだ。また一緒に行けるといいな」
「おじさんの暇があれば、いつでも僕は構いませんよ」
そう話していた時。
扉からノック音が聞こえる。
おじさんは急に張り詰めた表情をしながら席を立つ。
一瞬にして空気が凍ったようだ。
扉の覗き口を見たおじさんは、
僕に黙ったまま着いてくるように言う。
それは扉と反対に絵画が飾られている場所だった。
「おじさん…?何をしているんですか」
僕は小声ながらに尋ねるが、
人差し指を立て静かにするよう諭されるだけだった。
口を閉ざしたまま、やけに静かになった部屋で
おじさんは絵画に手を触れる。
それが傾いた時、絵画の向こうには隠し部屋が広がっていた。
「そんな…隠し部屋まで持っていたのですか…」
僕はがっかりにも似た気持ちだった。
縦長に飾られた大きな額縁は、一種の扉だったのだ。
おじさんはなんの抵抗もなしに部屋へ進んでいく。
小さなロウソク灯りが窓に反射していた。
荒廃した薄暗い部屋。
蜘蛛の巣が投げ出された本の上を覆い、
足元には灰色に染まったカーペット。
ダンボールの箱に捨てられるように入った植木鉢。
そこには黒い灰のようになった土があるだけ。
他にも世界地図のようなポスターのような筒が、壁にもたれ、
自立出来なくなったものは足元へ散らばっていた。
「どうして…こんな場所」
僕は部屋に踏み入ることが出来なかった。
後ろの扉からは絶えず急かすようなノック音が、
響き続けているのに。
「クインテッド…早く入れ」
ブルートパーズは部屋に相応しない輝きで見つめてくる。
差し出された手は、僕が気付かない間に包帯に巻かれていた。
「おじさん…ここは一体なんなのですか」
僕は苦しくなる胸の痛みを抱えながらに言う。
「ここはな…言うほどの場所じゃない」
「教えてくれないのですか」
彼の足元に視線が落ちる。
改まったように両足を揃えるおじさんの靴。
「それはまた後でもいいだろう。今はアイツらが来てるんだ」
「アイツらとはなんです…?」
後ろの扉から蹴りや殴る音が聞こえてくる。
その正体を僕は知っている気がした。
「前にも来てませんでしたか。彼らは」
おじさんは僕の言葉に驚いているようだった。
「お前、知ってたのか?」
差し出されていた手が引っ込まれる。
その動揺が尚更僕には、悲しかった。
「ええ、もちろんですよ。あの時は僕もいたんですから」
「そうか…お前さんやっぱ隠れてたのか…」
隠れていたとはなんだ。
僕はけたたましい背後の音など恐怖と感じなくなっていた。
「いや、それも後だ。お前の命を危険に晒したくない…」
僕は口をつぐんだまま、目も合わさなかった。
おじさんが嫌いとかではない。
ただ今は、合わせたくない気持ちがあった。
僕は絵画から手を離し、部屋へ入っていく。
背後はただの壁になっていた。
絵画が振り子の要領で元に戻ったようだ。
「さ、今は俺に着いてきてくれ」
足取りの重くなった僕達は、部屋の奥に構えられていた階段を登って行った。
道中、部屋の中を隈なく見ていたが
僕が初めて見る本や資料ばかりであった。
これほどの数をおじさんは、僕の目から遠ざけていたのかと思うと、
僕は酷く孤立感を覚えた。
「ここは誰も知らないはずだ」
彼の声に顔を上げると、そこは星が瞬く屋上だった。
辺りは暖色の明かりが灯る家々がぼんやりと
夜を照らしている。
星の爛々とした輝きが音になって聞こえてくるような静けさで満ちていた。
風の囁きも心を急かすような音も聞こえてこない。
おじさんは屋上の隅に置かれたベンチに腰をかけている。
「お前も早く来るといい。ここは静かでいいからな」
夜に紛れるように呟かれた声は、優しかった。
けれど、ベンチのすぐ足元には崖のようになっている。
僕は躊躇った。
「おじさん危ないとは思いませんか…。僕はそんな所へ腰などかけたくありません」
おじさんは迷いなく言う。
「危なくなどないさ。怖いなら俺が支えてやるよ。大丈夫さ、お前を手放したりしない」
揺らぎも迷いもない声に、僕は恐る恐るベンチに近付いた。
けれど、僕が座る事はなかった。
「そこでもいいさ、聞いてくれ。俺はお前に言っていない事が多すぎてしまった」