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専務は、書斎にいた。
扉を叩いて、開けて、私は手帳を持ったまま机の前に立った。専務は青いペンを置いて、顔を上げた。
「どうした」
「手帳の、十月六日のページを、誰かが開きました」
手帳を、机の上に置いた。開いたまま。
『契約。期限四月五日。報酬一千万円。寝室は別。第七条、恋愛感情を要求しない。』
テープ。鍵。自分の字。
専務は、それを読んだ。長くはなかった。読んで、私を見た。
「……書いていたのか」
「はい。十月六日に。決めたことは、書くので」
「栃か」
「十一月二十日のページに動いていました。私は、動かしていません。受付の机の下に、鞄を置いていました。名札のときに、離れました」
専務は、ペンを一本取って、机の上に横に置いた。
「写されたと思います」
言ってから、自分の声が普通だったことに気づいた。震えていない。三千万円のときと同じだ。自分のことでは、震えない。
「写真なら、親父に行く」
専務は、言った。
「氷室さんは秘書室だ。親父の机まで、歩いて十歩だ。何日もつかは、分からん」
「はい」
専務は、立ち上がった。
「先に、親父に言う」
「……何を」
「契約だと」
私は、専務を見た。専務は、私を見なかった。壁の時計を見ていた。
「写真を見せられて、問い詰められて、認めるより、先に言うほうがいい。半年、縁談を止めたかった。そのための契約だと。親父は怒るが、嘘を続けて暴かれるより軽い」
筋は、通っている。この人は、いつも筋が通ったことを言う。
でも。
「それでは、専務の半年が無駄になります」
声が出た。
「縁談を止めるための契約だと言えば、社長はその日に東雲さんとの話を進めます。十二日を待たずに。半年止めるつもりだったものが、二か月で終わります」
「……」
「それと、私の報酬も、なくなります」
言わなくていいことを、言った。でも、言わないと嘘になる。
専務は、時計から目を離して、私を見た。
「十二日まで、四日あります」
私は、言った。
「写真が出る前に、私たちが本物に見えればいいんです。社長は、矛盾したものを自分の目で確かめに来る。そう言いました。確かめに来たとき、本物に見えれば、写真は、古い紙になります」
「……本物に」
「見えれば、です」
専務は、しばらく黙っていた。
「演技でか」
「演技です」
即答した。即答できた。
専務の顔は、動かない。動かないのを、私は見ている。耳も、赤くない。それを確かめたことを、私は自分に言わない。
専務は、私を見たまま、少しのあいだ動かなかった。それから、横に置いたペンを取って、縦に立てた。
「……そうか」
私は、手帳を閉じて、鞄の内ポケットに戻す。書斎を出るとき、専務はもう机のメモに戻っている。青いペンで、何かを書いている。何を書いているのかは、見ない。
演技です、と私は言った。
自分の部屋に戻って、机の前に座って、その言葉を一度だけ、頭の中で繰り返す。言えた。言えたということが、何を意味するのかは、考えない。
考えない代わりに、手帳の十月六日のページを、もう一度開いた。第七条、恋愛感情を要求しない。書いてください、と言ったのは私だ。あの夜の私は、正しかった。正しかったことを、今日の私が確かめている。それが、少しおかしかった。
水曜の昼、スマホが鳴った。東雲さんだった。私は給湯室に入って、扉を閉めてから出た。
「ひよりさん。十分、いい?」
「はい」
「氷室さんが、面白い写真を持っていると、うちの父に言ってきたらしいの」
手が、止まった。
「私は、見てない。父も、まだ見てないと思う。桐谷のお父様に先に見せるつもりなんでしょう、って、父は言ってた。うちに、縁談を急がせたいんでしょうね」
「……そうですか」
「ひよりさん。気をつけて」
東雲さんの声は、いつもどおり、まっすぐだった。
「私、裏で動く人は嫌いって言ったでしょう。だから、言っておく。それだけ」
「ありがとうございます」
「お礼を言われることじゃない。正面から、って約束したから」
電話は、切れた。
私は、スマホを机に置いた。東雲さんは、縁談の相手だ。写真が出れば、いちばん得をする人だ。その人が、電話をくれた。
東雲さんは、専務が子どものころ甘いものが好きだったことを知っていた。私は、専務の七箱を知っている。知っていることの種類が違って、どちらが本物に近いのかを、私は決められなかった。
水曜の夜、専務のスマホが震えた。
専務は画面を見て、私のほうに向けた。差出人は、常務。
『水瀬さんと話がある。木曜、常務室に来させろ』
「行くか」
専務が、聞いた。
「行きます」
「俺も行く」
「来させろ、と書いてあります。私一人で、と」
専務は、画面を伏せた。伏せた手が、そのまま机の上に残った。指が、机を一度叩いた。
「……兄さんは、写真を見たんだろうな」
「たぶん」
「兄さんは、見たものを、見たと言う。それだけは、はっきりしている」
「何を言われても、動くな」
「動きません」
専務は、手を机から離した。
「契約だ、と言われても、動くな」
コメント
1件
ああもう……第24話、すごく重かったです。 専務が「先に言う」って決めた時の覚悟と、それを「それじゃ無駄になる」って止めたひよりさんの言葉、ちゃんと響きました。 「演技です」って即答したのに、自分でその言葉を反芻するところ、胸がぎゅっとなりました。 東雲さんが電話で教えてくれたのも、キャラの誠実さが出てて好きです。 次、常務室の場面、どうなるんだろう……緊張します。