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木曜の朝、七時四十分。五階の棚に、青いペンを三本足した。
足してから、棚の前を離れなかった。
営業企画の人が出てくるのは、八時半を過ぎてからだ。佐伯さんは、八時四十分。二年のあいだに、何度も見た時間。癖は、私も知っている。
待っているあいだ、台帳を開いて、昨日の数字を見直した。見直す必要はなかった。手を動かしておきたかっただけだ。
八時四十二分、エレベーターが開いて、佐伯さんが降りてきた。
明るい色のスーツ。コートを腕にかけて、スマホを見ながら。いつもと同じ時間、いつもと同じ歩き方。私が棚の前に立っているのを見て、足を止めた。
「……何だよ。朝から」
「手帳の写真、持ってますよね」
私は、言った。普通の声で。
佐伯さんの顔から、朝の眠そうな顔が消えた。
「何のこと」
「十月六日のページです。忘年会の夜に、受付の机の下の鞄から」
「知らないな」
「氷室さんが撮ったのか、佐伯さんが撮ったのかは、知りません。でも、持っているのは、お二人のどちらかです」
佐伯さんは、笑おうとして、笑わなかった。
「持ってたら、どうなんだ」
「私が四月に作った原本と、六月にあなたに渡したときのメール、全部あります」
佐伯さんの、スマホを持った手が、少し下がった。
「原本は、方眼紙に鉛筆です。課長が確認印を押しています。メールは、六月十四日。あなたに、ファイルを送ったときの。件名は『運用改善メモ』。本文に、形にしてくださる件、と書いてあります。あなたの返事も、残っています。『任せろ』と」
「……」
「写真を出すなら、私も出します」
言った。
言ってから、自分が今、何を言ったのか分かった。
私の記録を、私のために出す。他人のためにしか開かなかった台帳と手帳とメールを、自分のために。
佐伯さんは、しばらく何も言わなかった。言葉を切ったのは、初めて見た。
「……お前、変わったな」
「変わってません」
「変わっただろ。昔のお前なら、そんなこと言わない」
「変わってません。見てる人が、いただけです」
佐伯さんは、私を見た。それから、目をそらした。先に。
「出せばいい」
声が、少し大きくなった。
「どっちが信じられるか。契約で婚約者をやってる女の原本と、プロジェクトのリーダーのメールと。出せばいい」
佐伯さんは、私の横を通って、営業企画のフロアに入っていく。扉が閉まる。
私は、棚の前に立ったまま、少しのあいだ動かなかった。
手は、震えていない。確かめた。震えていない。
昼休み、会社の前に、白い薄手のコートが立っていた。
「ひよりさん。五分」
東雲さんは、今日は歩かなかった。ビルの前に立ったまま、私を見た。
「私、あなたが好きになってしまって、困ってるの」
正面から、言われた。
「……どういう」
「縁談の相手の婚約者を、好きになったら、困るでしょう。勝ちにくいもの」
東雲さんは、笑わなかった。
「写真のこと、父から聞いた。氷室さんは、明日、桐谷のお父様に見せるつもりらしい。私は、見ない。見たくないから」
「はい」
「それと、一つ言っておく」
東雲さんは、私の目を見た。
「奏さんが、あなたを見る目は、演技じゃない」
息が、止まった。
「私の目には、そう見える。ずっと見てきたから、分かる。あの人は、見ている人を見る。あなたを見ているときの奏さんは、演技をしている人の顔じゃない」
「……」
「それと」
一拍、あった。
「あなたの目も」
私は、答えなかった。答えられなかった。
東雲さんは、それだけ言って、駅のほうへ歩いていった。白いコートが、角を曲がって見えなくなるまで、私はビルの前に立っていた。
演技です、と私は言った。あの夜、書斎で。即答で。
その言葉を、今、もう一度言えるかどうか、私は確かめなかった。
夜、台所。
専務は、私が入っていく前に、言った。
「佐伯のところに、一人で行ったな」
「……はい」
「高梨が、五階の人間から聞いた。朝の棚の前で」
隠すつもりはなかった。でも、言う前に言われるのは、これで三度目だ。この人の秘書は、よく聞く。
「なぜ一人で」
専務が、立ち上がった。
「写真を持っているのが佐伯か氷室さんかは分からない。分からない相手に、一人で」
「専務の婚約者ですから」
言った。
「専務の婚約者が、専務の契約を守るために、自分の記録を使う。それは、私の仕事です」
専務は、私を見た。長かった。
「……婚約者なら」
声が、低かった。
「婚約者なら、俺を使え」
「……」
「一人で行くな。俺を使え。それが、婚約者だ」
「演技の、ですか」
聞いてしまった。専務は、答えなかった。答えずに、言った。
「……はい、と言え」
「はい」
専務は、椅子に座った。座って、机の上の青いペンを一本、横に倒した。
私のスマホが、震えた。
知らない番号からの、メッセージだった。開くと、写真が一枚。
茶色い手帳の、十月六日のページ。私の字。テープ。
『契約。期限四月五日。報酬一千万円。寝室は別。第七条、恋愛感情を要求しない。』
その下に、一行。
『社長は、明日ご覧になります。』
コメント
1件
読み終わった直後だからもう興奮がおさまらないんだけど!!😭💕 まず東雲さんが「あなたが好きになってしまって困ってる」って正面から言ったシーン、ここで飛び上がったよね。そして「奏さんがあなたを見る目は演技じゃない」って——ずっと見てきた人だからこその重みがありすぎる…。 最後の専務との台所のシーンもズルいよ。「婚約者なら俺を使え」って、ああああもう!!言葉選びと間の取り方がエモすぎて呼吸止まった。 そしてスマホに届いた一発——あの写真と件名と本文、怖いのにめっちゃ惹かれる。次の話が待てないよ…!!✨