天史拾遺長歌集

その日、高羽警察署に朝から血相をかえた男性が飛び込んできた。

わが町のちょうど中心部を、南北方面へ縦断する旧国道。

その沿道に、当該の警察署はある。

“旧”とは言え、他街道から通じる片側二車線の道路は広く、毎日の交通量もそれなりである。

ともあれ、“犯罪事件のない”当世にあって、警察官の職務といえば、もっぱら交通事情に関する旨が多かった。

とは言え、個人・個人の交通マナーなど、もはや天井に達している。

煽り運転もなければ、ひき逃げも起こり得ない。

ともすれば、かつての繁多な公務は無いに等しく。

一見すると厳格な建物も、その実情は有閑（ゆうかん）の社屋であり、日々の気忙（きぜわ）しさとは無縁だった。

そんな、今日も閑静な警察署に、大慌ての男性が飛び込んできた。

「ひと……！ 人が襲われた！！！」

しかも開口一番にそれである。

平和が身に染みついた当代の警察官にとって、初めての事態ではあったが、目立った混乱はない。

他者の生命・財産を脅かす存在に対する場合は、どうすればいいか。

転ばぬ先の杖ではないが、その教育はきちんと受けている。

「落ち着いてください。 大丈夫？」

「は……！ ひっ！？」

「なにを見たんですか？」

「だから！ 人が襲われるのを……！！」

頭を抱えた男性は、その場にペタンと崩れ落ちてしまった。

ひどい恐慌を来（きた）している。

受付カウンターを迂回した女性警察官は、努めて穏やかに、誠実な態度でこれに応じた。

「それは、知っている人？」

「ちがう！ ちがいます！」

「じゃあ、襲った人の特徴は？」

「ちがう！！！」

静まり返った屋内に破鐘（われがね）のような悲鳴が轟き、間を置かず一層の静寂を誘った。

「あの……？」

「ちがう……！ ちがうちがう！」

この場に居合わせた警察官諸氏が、本日の公務に対し、果たしてどういった展望を抱（いだ）いていたのかは知れない。

恐らくは上記の通り、輻輳（ふくそう）する交通が恙（つつが）なく運ぶよう、己の役割に従事しようとする者がほとんどだったろう。

あるいは、今日の昼食は何にしようか、もしくは夕飯の内容はと、他愛のない事柄に執心する者も、中にはあったかも知れない。

「襲ったヤツは、人間じゃない！！！！」

そんな彼らは、男性が真っ青な顔で絞り出した悲鳴を受け、自分たちのあり様（よう）をまざまざと突きつけられたような心持ちがした。

警察官として、市民の安全を守る。

しかし、いまの世の中に、他者を害そうとする不届き者はいない。

ただし、それはあくまで人間にのみ通用する話なのだ。

他者の生命・財産を脅かす輩（やから）は、なにもヒトだけとは限らないのだった。