テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#片思い
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
* * * *
ペンションに向かうバスの中で、昴がスマホを取り出してメッセージを打ち始めるのを、七香は横目でチラッと覗き見た。宛先は"早紀さん"で、『バスに乗ったよ』と一言だけのメッセージが画面に映し出されていた。
そういえば客が来ていると言っていた。そのために彼はわざわざ外へ出かけたのだから、鉢合わせるわけにはいかないのだろう。
「お客さん、もう帰ったかな?」
七香が言うと、昴はため息をついてから苦笑いをした。
「さぁ……どうかな」
彼の表情と言葉の意味がわからず、そしてそれに対する返事が思いつかなかった七香は、口を閉ざすしかなかった。
無言の車内。バスの揺れが心地良い。車窓には木々の隙間から差し込む日差しがきらきらと輝き、眩しくて思わず目を細めた。
ペンションのそばのバス停に止まると、二人はゆっくりと立ち上がる。それからバスを降りて、ペンションまでの道を歩き始めた。
なんだか不思議な時間だった。会ったばかりの、それも宿泊客と一緒に出かけて、まるで友だちと遊びに行ったかのような時間を過ごしたのだ。
「今日はありがとう。おかげでいい暇つぶしになったよ」
「私の方こそ、なんかいろいろ買ってもらっちゃって、申し訳ないです」
あともう少し歩けば、彼はコテージに、そして七香はペンションに向かう道の分岐点に差し掛かる。そこを過ぎれば、昴たちがチェックアウトをするまで話すこともないだろう。
七香は少しだけ寂しさを感じた。もう少し話したいと思うのは、それだけ二人で過ごした時間が楽しかったからに違いない。
「なぁ七香、ちょっとお願いがあるんだけど」
分岐点に着く前に、突然昴から声をかけられる。
「お願い?」
「そう。コテージまで一緒に来て欲しいんだ」
「別にいいけど……どうして?」
「んー……なんていうか、七香がいたら心強いかなと思って」
昴が悲しげに微笑んだのを見て、七香の胸が苦しくなる。どうしても放っておけなくて、慌ててスマホで時間を調べた。ギリギリではあるが、急いで着替えれば間に合うはず。
「いいよ、一緒に行くよ」
「頼りになるな、助かるよ、ありがとう」
分岐点を曲がらずに歩き続け、コテージが見え始めた時だった。玄関脇に置かれている椅子に誰かが座っているのが見えたのだ。
早紀さんだろうか。彼の帰りをわざわざ外へ出て待っていたのかと思った七香の目に、衝撃的な光景が飛び込んでくる。椅子に座っているのは一人ではなく二人の男女で、女性は男性の膝に座ってキスをしていたのだ。
七香は目を大きく見開いた。その女性は明らかに、昴と一緒にこのコテージに泊まっている早紀だった。
「えっ……どうして……?」
七香は両手で口を押さえ、ゆっくりと昴の方に顔を向ける。しかし昴は無表情のまま、その様子をじっと見つめていた。むしろコテージに向かって歩き続ける。
「昴くんっ……!」
頭の中が混乱していた。昴とこのコテージに来ているのに、別の男性とキスをしている。ということは浮気だろうか。でも付き合っていないと言っていたーーそれならこの状況は一体なんなのだろう。
「……ごめん、やっぱり七香は帰っていいよ」
彼の影を落とした背中が、全く正反対のことを言っているように感じた七香は、首を大きく横に振った。
「約束したし、一緒に行くよ」
だが昴からの返答はなく、代わりに小さく頷いたように見えた。
さっきまでの威勢はどこに行ったのかーーそれとも不安な気持ちを隠して、わざと気丈に振る舞っていたのかもしれない。そう思うと、何故か七香の方が苦しくなり、早紀に対して怒りが生まれてくる。
近付くにつれ、二人の笑い声が耳に入り始めたが、その声を昴がどんな気持ちで聞いているのか気になって仕方なかった。
その時、男性の方が昴に気付き、クスクス笑いながら早紀の尻を撫でる。よく見れば早紀は丈の長いTシャツを着ているが、その下はショーツ一枚だった。
「このために外に出ようって言ったのか? お前って本当に悪い女だなぁ」
「うふふ、なんのこと?」
男性は五十代半ばほど。掘りの深い顔立ちで、やけに長く感じる前髪は、普段は上に上げているのかもしれない。前が開いたワイシャツにスラックスというラフな姿は、仕事後であることを意味しているようだった。
早紀は男性のはだけたワイシャツの隙間から手を差し入れて、彼の胸の頂を指でいじりながらクスクスと笑う。
「ただいま」
落ち着いているように聞こえるが、彼の本心はどうなのだろうーーピタリと足を止めた彼の背中には力がないように感じた。
早紀は楽しそうに振り返ると、
「あら、おかえりなさい」
と口にしたが、昴の背後に七香が立っていることに気付いて、一瞬怪訝な表情を浮かべた。しかしそれを悟られまいと、慌てて余裕のある笑顔を向ける。
「どうしてその子が一緒なの?」
「暇だったから付き合ってもらったんだ」
「あら、そうだったの……」
その言葉には棘があり、明らかに七香に向けられていた。そんなふうに思うのなら、どうして別の男性とキスなんかしているのだろうーー七香は気分が悪くなるのをグッと堪えるように、両手で口元を押さえる。
「彼も帰ってきたようだし、じゃあ俺はそろそろ行こうかな」
男性は早紀を膝から下ろすと、彼女の髪を優しく撫でた。
「俺みたいなおじさんならともかく、まだ若い子なんだから、あまり意地悪するんじゃないよ」
「そんなこと、してないわよ」
唇を尖らせた早紀の頭に手を載せてから、ワイシャツのボタンを留めて服を整え始める。どう見ても、深い関係があるとしか思えないやり取りだった。
「また連絡するよ」
「えぇ、待ってる」
男性は先に手を振り、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。そして昴に笑いかけると、すれ違いざまに肩をポンっと叩く。その笑顔からは大人の余裕すら感じた。
「自由奔放な女性だからね、大変だろうけど頑張って」
宿泊していないとはいえ一応お客様なので、七香は頭を下げて男性を見送った。その時七香の視界に、昴が両手をギュッと握りしめている様子が飛び込んでくる。
私なら好きな人が別の人と話しているだけでも泣きそうになる。手を繋いでいたりしたら正気を保ってなんかいられない。この人はなんて我慢強いんだろうーーすると視界の中の昴が、コテージに向かって再び歩みを進めたのだ。
「七香、ありがとう」
「えっ……」
思わず手を伸ばしかけたが、昴がこちらを振り返ることはなかった。行き場をなくした手を引っ込めると、それを見ていた早紀が不敵な笑みを浮かべて七香を見た。
私たちにはなんの関係もないのに、なんであんな目で見られないといけないの? 彼と出かけたから? そんなのってただの八つ当たりじゃないーー。
昴が早紀のそばに立つと、彼女は満面の笑みで彼を抱きしめてキスをした。さっきあの人とキスした口で、どうして彼ともキスが出来るのだろうーー七香の体に悪寒が走る。
早紀だけでなく、何も言わない昴の態度にも、七香には納得がいかなかった。
吐き気がし、もうこの場にはいたくないと思った七香は踵を返すと、ペンションの方へ走り出した。