コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
 白い壁が、痛いほどまぶしい。
無機質な照明の下、長机の向こうに並ぶ顔ぶれを、俺は静かに見渡していた。
 誰も彼もが、思い思いの姿勢で座っている。
足を組む者、肘をつく者、退屈そうに鼻歌を歌う者――。
 ――これが、この組織の幹部連中だ。
 それぞれが異常な才能を持ち、同時にどこか壊れている。
まともな神経でここに居られる者なんて、一人もいない。
 ……俺も、含めて。
 ここは、そういう場所だ。
 統合因果観測機構。
通称――I.C.O.
第零会議室。
 「今日、リアス様いないの?」
 俺の斜め前に座る少女が、退屈そうに声を上げた。
 照明に照らされて艶やかに光るエメラルドの髪。
同色の惑星のような瞳。髪は短く切り揃えられ、前髪だけが片目にかかっている。
 服装は、戦闘には到底向かなそうな――フリルの多い白いワンピース。
袖がひらひらと揺れ、見るからに邪魔そうだ。
 首元には黒いチョーカー。
まるで、海外のホラー映画に出てくる“呪われた人形”のようだった。
 彼女の名は、シス。
……いや、“シス”というのはコードネームだ。
本名を知る者は、この部屋には誰もいない。
 その隣には、同じエメラルドの髪に黄色い瞳を持つ少年が座っている。
「来るはずだよ?」と、椅子の下で足をバタバタと鳴らしていた。
 こいつは、シスの双子の兄――ヒバル。
軍服にマントを垂らした、これまた奇抜な格好。
 「遅れてるんじゃなーい? よくあることでしょ。」
 そう呑気に言うのは、桜色のツインテールを揺らす女。
爪を眺めながら、退屈そうに脚を組んでいる。
 赤紫の瞳に、長いまつ毛の影。
白いワイシャツに黒いネクタイ、そして背中には――やっぱりマント。
戦場より、舞台の方が似合いそうな女だった。
 「時間は守って欲しいよ、ほんと。」
 ぼやくように言ったのは、眼鏡をかけた男。
水晶のように透き通る髪、黄緑の瞳。
黒い外套に包まれた細身の体は、神経質なほど静かだ。
手には銀の懐中時計――針の音に、異常なほど耳を澄ませている。
 「お前はホント時間に厳しいよなぁ? もっとのんびり行ってもいいじゃねーか!」
 明るい声が割って入る。
赤髪に炎のような瞳。刈り上げた髪型が、彼の乱暴さを際立たせていた。
 鍛え上げられた腕、露出の多い服装、そして――長いマント。
この組織の連中は、本当にマントが好きらしい。
 「長が時間にルーズでどうするのさ、まったく。」
 最後にそう言ったのは、性別すらわからない人物。
真っ黒な長髪に、白いシャツ、黒のネクタイ。
地味で目立たないが、その瞳だけは底知れず冷たい。
 日によって声も態度も変わる、不気味な存在。
誰もその“本性”を知らない。
 「なぁ? アネモネ、もうちょっとのんびり生きた方が人生楽だよな?」
 赤髪の男――コードネームはレイラー。
彼は俺の方を見て、まるで軽口のように言ってきた。
どうしてこの状況で俺に話題を振るのか、まったく分からない。
 俺の名前は露草タヨリ。
けれどこの組織では、誰もがコードネームで呼び合うのがルールだ。
任務の時も、会議の時も。俺も例外じゃない。
 与えられた名は――アネモネ。
……正直、長のネーミングセンスは毎度、微妙だと思う。
 「こんな子どもに言ったところで、彼はまだ十七歳だ。分からないだろう。」
 冷たくそう言ったのは、眼鏡の男――リュミエ。
 「そうですね。それに、のんびりしてたらリアス様に怒られますよ。」
 「でも、そのリアス様が一番遅れてるけどね」
 「……頑張ってるんだよ、リアス様は。」
 一瞬、場の空気が止まった。
誰もが苦笑しそうになって、それでも笑わない。
この組織では、冗談ひとつにも命取りな重みがある。
 「――誰が、遅れてるって?」
 その声は、扉の向こうから。
柔らかく、愉快そうで……それでいて、背筋が凍るほど冷たかった。
 その瞬間、誰もが息を呑む。
椅子の軋む音すら、許されない空気の中――
 「あ、リアス様だ。」
 「わぁ」
 ヒバルとシスは、まるで遊園地にいる着ぐるみを着た人と出会った子供のように声を上げる。
無邪気で、無防備で――しかし、俺は知っている。
この“子供”たちでさえ、リアスの前ではほんの少しの油断も許されないということを。
 まず、この双子まで、頭のネジがぶっ飛びにぶっ飛んだ阿呆だ。
 扉が静かに開いた。
白い壁に、長く、細い影が伸びる。
 「……賑やかで結構。けれど、私がいないと何も始まらないのも困ったものね。」
 黒い軍事マントを翻し、赤黒い瞳がひとりひとりを射抜く。
笑っているようで、笑っていない。
その目に映るのは、狂気と冷たさのみ。
 ――リアス。
この組織の“長”にして、唯一、誰にも逆らえない存在。
 時間に厳しい男、リュミエは懐中時計の蓋をカチッと閉じて、横目でリアスを見ると、ため息混じりに呟いた。
 「そりゃあ、僕たちはあなたの狛犬。指示がないと、何をすればいいのか分からない。」
 「少しは考えてもよくって?」
 そう言って、リアスは微笑んだ。
まるで――次に誰を壊すか、すでに決めているかのように。
 場にいた者たちは、一度立ち上がってから深々と頭を下げ、再び静かに腰を下ろした。
 リアスはゆっくりと歩を進める。
音もなく、まるで床の上を滑るように――その姿は、まるで空気そのものが形を得たかのようで、視界に映る影さえ重みを帯びていた。
 「さてと、今日、集まってもらったのには理由があるわ。」
 俺たちの前にある長机は、中央だけが細長く切り取られたように空白だった。
その奇妙な構造が、まるで“何か”を置くための祭壇のようにも見える。
 リアスはその先頭――ひときわ重厚な椅子に腰を下ろし、足を組んで微笑んだ。
 「桜月イロハ、抹消計画について。」
 その言葉が空間を割ったとき、衝撃というより先に「ああ、やっぱりか」という諦めが先走った。前の任務で、俺はわざとイロハさんを危険な場所に誘導した。動き出すのは時間の問題だと、その時から分かっていた。
 そして思う。これでまた、レンから何かを奪うのか――と。
 目の端で、あの窓越しに見たレンの影がよぎる。
「もう大嫌いだ」って言われた。あの言葉がまだ胸を刺している。
 「聞いてるの? アネモネ」
 リアスの声が、俺を現実に引き戻す。はっと顔を上げると、彼女はやや呆れたように俺を見た。
 「……いいでしょう。で、あなたたちにはこれから、イロハを“消す”。そして、篠塚レンは捕獲して。あいつは取り込めば戦力になる。」
 任務内容が朗々と読み上げられる。周囲は静かに受け止めるだけで、声は上がらない。
俺の中で、何かが冷たく沈んでいった。
 「任務内容は以上。――誰がやる?」
 「え? まだ決まってないんですか?」
 「決まってたら、こんなに大勢呼ばないでしょ」
 空気が動いた。誰かが指を鳴らしたような、小さな音だけが響く。
 「アネモネは、何かと都合がいいんじゃない?」
 一番に俺のコードネームを口に出したのは、桜色の髪の女――シェルアだった。
 「なんで俺ですか。」
 「だって仲良いじゃん。友達でしょ?」
 友達だからこそ、やりにくいんだ。
と内心で文句を垂れながらも、「えっと……」と曖昧に声を漏らすことしかできない。
 「アネモネはダメだろうね。何せ、組織の一員だってことを二人とも知ってる。アネモネが近づいた時点で、もう怪しむはず。」
 性別不明の黒髪――ドリミアが、こちらをちらちらと見ながら口角をゆっくり上げた。
その不気味な笑みと発言が、いつも俺の全身を震わせる。
 「怪しまれない人、ねぇ。」
 「俺やろうか!!」
 レイラーが自信満々に手を上げた。
だが、即座にリュミエが冷たく遮る。
 「お前はダメだ。感情的に動くし、怪しまれないようにする演技もできない。」
 「え〜、俺だって真面目にやるときはやるぞ?」
 「その“真面目”が信用ならないんだよ。」
 「ひっど! ねぇ、アネモネ、お前なら俺信じてくれるよな?」
 ……なんでそこで振るんだよ。
俺は視線を逸らした。
 「私たち、やる。」
 静かに手を上げたのは、この中で最も小さい幹部のシスだった。
 そして、双子の兄のヒバルも、一緒にやろうとしているようだ。
 「僕たちは見た目は子供だ。困ってる迷子のふりでもして、騙せばいい。」
 「――いいわね。」
 リアスの声が響いた瞬間、空気が凍った。
誰もが思わず背筋を伸ばす。
 その狂気的な赤い瞳が、双子を射抜く。
彼女はゆっくり立ち上がり、周りを見渡したあと、 もう一度二人を見つめる。
 「じゃあ、今回はあなたたちに任せるわ。……失敗したら、その時はその時だけれど。」
 「失敗しないよ! 僕たち今まで失敗したことないでしょ?」
 「そう――“まだ”ね。」
 リアスの唇が、ゆっくりと笑みに歪んだ。
ぞっとするほど静かな笑いだった。
 「それじゃあ、本日は以上。各自仕事をこなすように。」
 扉が閉まる音が響いた瞬間、
張り詰めていた空気が一気にほどけた。
誰かがため息をつく。誰かが椅子を軋ませる。
今日も何とか終わった。そんな安堵が、ほんの少しだけ広がった。
 俺も、そっと息を吐いた。
 「ちぇー、俺もやりたかったな。レンってやつがどんなのか知りたいし。」
 レイラーが不貞腐れて口を尖らせる。こいつ、あの双子よりも頭ん中幼いんじゃないか。
 「遊びじゃないんだ。……少しは頭使ってください」
 俺は呆れに呆れて、そのまま立ち上がった。
この空間にいると、ストレスが溜まって仕方ない。
 俺が方向を変えて扉の持ち手に手をかけると、レイラーは「もう帰るのかよー」と、言う。
「まだ仕事がありますから。」と嘘をついて出ていこうとした時、ふと目にうつったのは、ドアの傍らに佇む、髪の長い男だった。
 何も発さずにただ、見張り役としてそこにいるだけの空気のような存在が、何故か目に入った。
 その時、偶然ではないだろう、彼のフードの隙間から、青い月夜のような瞳が垣間見えた。
 そしてその瞳は、俺をしっかりと捉えている。
 「……なんですか?」
 「……」
 問いかけても、返事はない。
沈黙だけが返ってきた。
それ以上言葉を重ねる気にもなれず、俺は扉を押し開け、会議室を後にした。
 
 
 
 廊下に出た途端、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
無機質な照明の下、足音だけが遠くまで響く。
それがやけに大きく聞こえて、胸の奥がずきずきと疼いた。
 「……あいつ。」
 あの見張りの男。
今まで何度も顔を合わせてきたはずなのに、あんな色をしていたなんて気づかなかった。
まるで、夜の海を閉じ込めたような――あれは、何を見ている瞳だったんだろう。
 視線を思い出すたび、背中に冷たい汗が伝う。
あの瞳は、ただの監視なんかじゃない。
まるで俺の中身を覗き込んでいるようだった。
 「裏切る気があるだろう?」
 そう問われた気がして、思わず拳を握る。
 ……俺は、何を考えてるんだ。
そんなことを意識してる時点で、もう心のどこかが“揺れてる”。
 「イロハさん……レン……」
 小さく名前を呟く。
その声は、あっという間に冷たい廊下の奥に吸い込まれていった。
 俺は顔を上げ、再び歩き出した。
今はまだ――揺れちゃいけない。
……どうしよう。
……起き上がれない。
 泥沼に沈むみたいに、ベッドに張り付いて動けない。
起きようと腕に力を入れても、重力が何倍にも増したみたいで、体が鉛のように沈み込む。
 しんどい。
頭の中に靄がかかっていて、夢と現実の境目がぼやける。
息をしている感覚すら、遠い。
 「……どうして、当たり前のことすらできないんだ……」
 呟いた声は、誰にも届かない。
部屋の空気は湿って、静かで――まるで俺を見放したみたいに、何も返してくれなかった。
 窓の外では朝日が差しているのに、俺の中だけは夜が続いている。
昨日から、いや、もっと前からかもしれない。
時間の感覚なんて、もう曖昧だ。
 ……イロハに、何て言えばいいんだろう。
「友達と喧嘩した」と正直に言うか、それとも笑ってごまかすか。
どれもできそうになくて、俺はまた目を閉じた。
 「……クラクラする。……でも、そろそろ起きないとな……」
 ――起きなきゃいけないのに、身体が動かない。
 そんな時。
 ピーンポーン。
 呼び出しのチャイムが鳴る。誰かが訪ねてきたみたいだ。
 こんな、朝早くに?
 ピンポーン。
 二度目のチャイムが鳴る。
しつこい、ってほどでもない。でも、確かに“待っている”音だ。
眠気とだるさを引きずりながら、俺は布団の隙間から顔だけを出した。
 「……誰だよ、こんな朝っぱらに……」
 声に力が入らない。
無視しようかと思ったけど、三度目のチャイムが鳴った瞬間――
なんとなく、胸の奥がざわついた。
 このタイミングで来るのは、ひとりしか思いつかない。
 重たい身体を引きずって玄関まで向かい、扉を少しだけ開けた。
 そこに立っていたのは、やっぱり。
 「……おはようございます。」
 イロハだった。
 朝の光を背にして立つ彼女は、どこか心配そうで、でも表情は静謐だった。
白い髪を耳にかけて、俺を見上げる。
 「急にごめんなさい。でも……なんとなく、来た方がいい気がして。」
 俺は言葉を探した。
「どうしたんだ」とも、「なんでここに」とも言えない。
喉が乾いて、声がうまく出なかった。
 代わりに、イロハの視線が俺をそっと探るように動いた。
その目は、まるで何かを“見透かしている”みたいで――。
 「……顔、真っ白ですよ。具合、悪いんじゃないですか?」
 「……ちょっと、寝不足なだけだよ。」
 嘘だった。
自分でもわかってる。でも、そう言うしかなかった。
 イロハは小さくため息をつくと、
そっと背伸びして、俺の額に手を添えた。
 「熱は……無いですね。じゃあ、身体じゃなくて心の方ですか。」
 「心の方、ってなんだよ。」
 「例えば――友達との喧嘩とか。しかも、もう二度と会えないような。」
 こいつ、わかってて言ってやがるな。
 「わかってて言ってるだろ。」
 「わかりやすいので。」
 イロハは俺を猫のような目で見ていたが、
ふと、俺の腕の方に視線を移した。
 「怪我ですか?……古傷のように見えます。」
 いつもは長袖で隠している。
だから、彼女が気づくのは初めてだ。
今は半袖だったから、偶然見えたんだろう。
 「あー、うん。昔、怪我してさ。」
 イロハは何も言わなかった。
けれどその沈黙が、妙に痛かった。
 「……落ち込むな、とは言いませんが、引きこもっていても沼に沈むだけです。外に出ては? いいですよ、今日は快晴です。」
 彼女の背にある日光が、眩しくて神々しい。
その光は、いつもの月光とは違う――あたたかくて、現実の色をしていた。
 玄関の隙間から吹き込む風が、寝ぼけた頭の奥まで冷やしていく。
久しぶりに吸い込んだ空気は、少しだけ苦くて、でも悪くなかった。
 すぅ……と深呼吸して、逡巡する。
確かに、いつまでも引きこもっているわけにもいかない。
……けど、まだ立ち上がるのが怖い。
 吐き気と目眩が、まるでこの前の重みを引きずっているみたいだ。
それでも、イロハの視線だけはまっすぐ俺を見ていた。
 「……まぁ、どうせすぐ治るか。」
 自分でも、ほんの少し綻んでいるのが感じられた。
口にしたその言葉が、ほんの少しだけ本音に聞こえた。
久しぶりの、外だ。
玄関を出た瞬間、冷たい空気が肌を撫でた。
それだけで、胸の奥につかえていたものが少し溶けるような気がした。
 空気が、美味しい。
心の内側にこびりついた黒いものを、朝の光が静かに切り払っていく。
 「おー……外って、こんなに心地よかったっけ?」
 イロハは隣で立ち止まり、空を仰いだ。
白い髪が、朝日に照らされて金色にきらめく。
 「いいですよ、朝は。夜とは違って――温かさを、教えてくれます。」
 その言葉は、どこか詩のようで。
聞いているだけで、胸の中の冷たいものが少しずつ溶けていく気がした。
 イロハはふっと微笑むと、俺に手を差し出した。
 「いいところがあるんです。……行きましょう。」
 そのままイロハの後をついていくと、辿り着いたのは――草花が生い茂る、野原のような場所だった。
地面一面に緑の絨毯が広がり、その上から、朝の陽光がやわらかく照らしている。
 眩しさに目を細めながら、胸の奥が静かにあたたまるのを感じた。
こんな景色が、まだこの世界に残ってたんだな――と。
 「ここ、いいですよ。森の空気に似ています。」
 そう言うとイロハは、踊るように歩き出した。
手を広げてくるりと回り、その瞬間――この景色の中心が、彼女になった。
 「緑は、目に優しいですし、何より落ち着きます。今のあなたに必要だと思いまして。」
 彼女は微かに綻んで、もう一度くるりと舞う。
……と思った瞬間、足を取られたのか、そのまま草の上に転がった。
 「お、おい!?」
 慌てて駆け寄ろうとした俺の足も、見事に引っかかる。
情けない声を上げながら、二人して同じ場所に転がり込んだ。
 最近、外に出てなかったせいだ。……運動不足だな。
 寝転がったまま横を向くと、すぐ傍にイロハの顔があった。
距離、近すぎる。……これは、密だ。
 きらびやかな瞳に、桜色の唇。
その全部が朝の光を受けて、少しだけ眩しい。
 ――なのにイロハは、ひとつも表情を変えやしない。
 「……ちっか……!」
 びっくりして、慌てて起き上がった。
頬の辺りが妙に熱い。
 「大丈夫ですか?」
 「……お前もな。」
 俺の真似をするように、イロハも起き上がる。
すると、急に剣を抜いた。いや、どうした?敵もいないはずだけど……。
 「見てください、レン。この鍔についている猫のぬいぐるみ。名前を考えたんです。」
 なんだ、そんなこと……。と安堵して、「へぇ、なんて名前?」と聞く。
 「戀(れん)です。」
 「はっ!?」
 なんで俺と同じ名前? ややこしくないか。
 「レンから貰ったものなので。戀と名付けました。」
 イロハは小さなぬいぐるみを手で覆い、大事そうに眺める。
まるで我が子をなでるお母さんみたいだ。
 「最近は寝る時も一緒です。お話しもします。」
 ぬいぐるみとお話し? ぬいぐるみは話せないと思うんだけど。
そう問うと、イロハは静かに微笑んで言った。
 「ぬいぐるみにも魂はありますよ。」
 確かに、そういう考えもあるかもしれない。
やっぱり、子供っぽいなぁ。
そう考えると、勝手に笑い声が漏れ出てしまった。
 「……元気、出ました?」
 「……え?」
 「元気、出ましたね。良かったです。」
 「……あ、ありがとう。ちょっと、元気出たかも……」
 照れ隠しに目を逸らす。
でも、隣でにこっと笑うイロハを見たら、心の中の重たい霧が少しずつ晴れていくような気がした。
 「……こういうの、悪くないな」
 思わず口にした言葉に、ほんの少し自分でも驚く。
でも、それ以上に――隣にいる彼女の存在が、安心感をくれる。
 「あの、レン。」
 「ん?」
 「レンは、もし意地悪されたら、どうしますか?」
 急な謎の質問。
意地悪……意地悪の度合いにもよるけど……。
 「俺は何も言わないかな。自分がそれだけ悪い事をしたってことだろ?あぁ、でも意地悪されてるとこ見たら、助ける。」
 イロハは物珍しそうに「ふぇー」と言う。こいつ、またにこう言う阿呆な返事するから面白い。
 
 「私なら、倍にしてやり返してやります。意地悪をするってことは、やり返される覚悟があるということですよね?」
 「まぁ、うん。そうかな。でもやり返すと、こっちが悪くなっちゃうんだよな。」
 イロハは「うぅむ……」と唸り、顎に手を添える。そして思いついたように俺を見た。
 「昔、こんなことがあったんです。」
 イロハが突然、昔話を始めた。
 それはまだ幼い頃の話。
 他の子供に比べて薄情だったイロハは、一部の森の子達から意地悪を受けていたそうだ。石を投げられたり、砂をかけられたり、悪口を言われたり――そんな日常だった。
 しかしイロハは微動だにせず、時期女王として修行を続けていた。
 ある日、久しぶりにフユリと遊んでいると――
いじめっ子たちがやってきて、イロハを馬鹿にし始めた。
「口無し」「お化け」「気持ち悪い」……石も投げてくる。
 イロハはいつも通り、無視を決め込んでいた。
しかし――
 「いい加減にしなさいよ!」
 フユリがついに怒ってしまった。イロハにも、イロハを馬鹿にする子達にも苛立ったフユリは、いじめの主犯格の男の子を思い切り打ったのだ。
 当然、いじめっ子は泣きわめき、どうすればいいのか分からないフユリも、泣いてしまった。
 その時のイロハは――ものすごく困った覚えがあるそうだ。
何より、泣いている人にどう声をかければいいのか、なぜ泣いているのかさえも、分からなかったらしい。
 すると、騒ぎを聞きつけたのか、イロハのお母さんがやってきた。
 泣きわめくいじめっ子とフユリを収め、話を聞こうとすると
 「こいつが僕を打った!!」
 「この人が悪いのよ!だってイロハに意地悪するもん!!」
 と、喧嘩になり始めたらしい。
 お母さんは二人の話をよーく聞いてから、ゆっくりとこう言い始めた。
 「いい?今回はイロハをいじめたあなたが悪いわ。人をいじめるなら、いじめられる覚悟を持ちなさい。」
 その後、仲直りさせて、イロハを二度といじめないようにさせたらしい。
 そして夜。イロハのお母さんは静かに、でも確かに伝えるように言った。
 「イロハ……この先、周りの大人から心ない言葉をかけられたり、傷つけられたりすることもあるでしょう。その時は、無視するのもよし。影でやり返すのもよし。ちょっとやりすぎくらいが、ちょうどいいのよ。」
 「だから、今もやられたらやり返します。だって、先に始めた方が悪いのですから。」
 その話を聞いて、胸が少し痛んだ。
イロハにも、ちゃんとした幼少期があって、苦しいことはたくさんあったはずなのに。話を聞く限り、昔のイロハには「人の感情」というものがどこか欠けているように思えた。
 でも、困ったりすることもあるし、感情がないわけでもない。
ただ、表し方が分からないだけだ。
 「イロハのこと、たくさん考えてくれてるんだな。」
 「ええ。今は顔は見えませんが、この剣の中に魂があります……大丈夫。お母様の言葉さえ覚えていれば。」
 イロハは何も無いように言うけれど、瞳は嘘をつかない。少し寂しそうな眼差しは、今じゃなく過去を眺めている。
 「……あ、そういえば。」
 思い出したのか、イロハは口を小さく開けて、視線を右上に向けた。
 「昔、お母様は子守唄を歌ってくれました。凄く、落ち着く旋律で、好きでした。」
 「へぇ、どんなの?聞かせて」
 尋ねると、少々首を傾げ、悩むような仕草を見せる。小さな手がそっと剣の鍔に触れ、指先を軽く震わせた。
 「歌は、あまり得意ではないのですが。」
 「それでもいいよ、聞かせて。」
 イロハは小さく息を吐き、肩の力を抜くように深呼吸した。そして、目をそっと閉じ、思い出の世界に入り込む。
 泣いて笑って
星の海を渡ろう
そっと夢の舟に乗せ
闇も光も紙一重
 月の光、手のひらに
小さな心、守るから
すやすや、眠れよ
夢の中でまた逢おう
 またいつか。
 イロハが歌い終えると、野原に小さくて柔らかな余韻が残った。
風に乗って草の香りと混ざり、胸の奥まで静かに染み渡る。
 俺は思わず息を止め、目を細めた。
この歌…..何処かで。
 「……すごい。落ち着くっていうか、なんていうか……安心する。」
 口に出すと、イロハは小さく微笑む。
その瞳には、どこか照れくさそうな光が浮かんでいた。
 「気に入ってもらえて良かったです。昔は、眠る前に必ずお母様が歌ってくれました。」
 イロハの表情は少し柔らかく、けれどもどこか幼い。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
 でも同時に、違和感も覚える。この旋律、この歌声、何処かで一度聞いた気がする。
多分、似たような曲かな。
 「……いいな、こういう時間。今まで、なかなか無かったよな」
 「はい……レンといると、こういう穏やかな時間が、とても特別に感じます。」
 風が二人の髪を揺らし、光が草の隙間から差し込む。
その中で、俺たちはただ――静かに、隣にいることの心地よさを噛みしめた。
 だが、その心地よさはすぐに、かき消された。
 遠くから、かすかに泣き声が聞こえた。
「うっ……うぅ……。」
 俺とイロハは顔を見合わせ、声のする方へ駆け出す。
 「……迷子かしら。」
イロハが小さくつぶやく。
 小さな女の子が、草むらの中で泣いていた。
髪はエメラルド色。白いワンピースに、首の黒いチョーカーが妙に目を引く。
 「どうしたの? お父さんとお母さんは?」
 「……い、ないの。人を探してるの。」
 イロハはしゃがみ込み、そっと背中に手を添える。
「誰を探してるんですか。」
 女の子は嗚咽をこらえながら、かすれた声で言った。
 「だいじょうぶ……もう、見つかった。」
 俺は周囲を見渡した。
……誰もいない。風すら止まったように静かだ。
 「それは……誰?」
 イロハが問う。
 女の子は、ぴたりと泣き止んだ。
そして――ゆっくりと顔を上げる。
 その瞳が、俺の心臓を貫いた。
 「……あなたたちだよ。」
 その瞬間、脳裏を閃光が走る。
未来が流れ込む。
 背後から迫る、殺気。
目に映る影――冷たい刃。
 「っ……!」
 映像が途切れるより早く、俺は振り向いた。
第十三の月夜「弄ばれる心と過去」前編
へ続く。