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第8話 一回決めてから、変えた人
進路個別面談の予定表が黒板の端に貼られた翌週、
ホームルームの終わりに、西尾先生が少し声のトーンを変えた。
「はい、連絡もう一つ。
来週の水曜、放課後に“卒業生進路ガイダンス”をやる。
今年は、俺の元教え子の宮崎さんが来てくれることになった」
教室が、ざわっとする。
「OB?」「OG?」「若いの?」「イケメン?」「そこ?」
勝手な声が飛び交う中、
先生は黒板に「宮崎さん(一般企業→退職→専門→別職)」と簡単に書いた。
「大学に行ったやつの話は、進路資料にいくらでも載ってる。
今日は、“一回就職してから進路を変えたパターン”の話が聞ける。
就職希望のやつだけじゃなく、進学組も全員参加。以上」
チャイムが鳴ると同時に、
周りからいろんな声が聞こえた。
「就職→やり直しって、負け組逆転系?」
「そういう漫画ありそう」
「いや普通にしんどそうだけど」
村上が振り返ってくる。
「安藤、行くんだろ?」
「全員参加って言われたろ」
「いや、そうだけどさ。
“行きたい”気持ちはあるんかなって」
少し考えてから、素直に答える。
「……ある。
“決めたあと変えた人”の話、けっこう気になる」
「だよな」
村上はそれだけ言うと、
「俺は眠くならないようにだけ頑張る」と笑った。
◇
水曜の放課後。
多目的室には三年生がぎゅっと詰め込まれていた。
前のスクリーンには「卒業生進路ガイダンス」とだけ表示されている。
横には西尾先生を含む数人の先生。
その隣に立っている、見慣れない人が宮崎さんだろう。
スーツではなく、シンプルなシャツとカーディガン。
年齢は二十代後半くらいに見える。
パッと見は普通の社会人で、
“特別な成功者”という感じではなかった。
「はい、静かにー」
西尾先生が軽く手を叩き、
マイクを宮崎さんに渡す。
「じゃあ、宮崎。
よろしく頼む」
「はい。……えっと、久しぶりです」
少し緊張したような声。
でも、マイクを持つ手はあまり震えていない。
「はじめまして、かな。
数年前にこの学校を卒業した、宮崎と言います」
前列の何人かが、姿勢を正すのが見える。
「私は、高校を卒業したあと、
すぐに地元の会社に就職しました。
そのあと、三年くらいで一回仕事をやめて、
専門学校に入り直して、
今は別の仕事をしています」
淡々とした自己紹介。
特別ドラマチックな言い回しはない。
「今日は、
“高校のときの進路の決め方”が良かった話ではなくて、
“正直、あんまり上手くいかなかったほうの話”をしに来ました」
教室の空気が、少しだけ変わる。
成功ストーリーじゃない、とハッキリ言われると、
逆に耳を傾けたくなる。
「まず、私の高校時代の話からすると……
当時の私は、
“勉強もそこそこ、部活もそこそこ、夢は特にない”タイプでした」
――あ、それ俺だ。
心の中でツッコむ。
「ただ一つだけあったのは、
“早く自分でお金を稼ぎたい”って気持ちでした。
家のこともあったし、
大学に行くなら奨学金を借りなきゃいけないって話もあって。
“だったら、もう働いちゃったほうが早いんじゃないか”って」
最初に、石田店長から聞いた話と少し重なる。
「で、進路希望票に“就職希望”って書いたら、
先生に“本当にそれでいいのか”って何回も聞かれました。
でもそのときの私は、
“やりたいことはないけど、とりあえず働く”って選択肢を、
自分なりに“前向き”だと思っていたんです」
“前向きな就職”。
そういう言い方もあるのか、と少し意外に感じた。
「で、実際に会社に入ってみてどうだったかというと……
最初の一年は、正直それなりに楽しかったです。
制服もらって、給料もらって、“社会人です”って顔ができて。
高校の友達が、まだテストだレポートだって言ってる中で、
私は“働いてる自分”にちょっと酔ってたと思います」
その言い方は、どこか自分を笑いながら振り返っている感じだった。
「でも、二年目の途中くらいから、
だんだんこう思うようになりました。
“あれ、私、この仕事で何を目指してるんだっけ”って」
そこからの話は、淡々としているのに重かった。
「やりがいが全くなかったわけじゃないです。
人間関係が全部最悪だったわけでもないです。
ただ、“ここでキャリアを積んでいく自分”が、
どうしても想像できなかった。
でも、辞める勇気もない。
転職するほどのスキルもない。
そのまま何となく三年目に入って、
ある日ふと、“このまま十年経っても同じこと言ってるかも”と思ったんです」
十年。
その数字は、想像がつくような、つかないような。
「それで、
“今のうちに一回止まろう”と思って、会社を辞めました。
辞めたあと、しばらくは本当に何者でもなくて。
履歴書には“職歴が中途半端にある人”になっていて。
その期間は、正直、けっこうしんどかったです」
でも、と宮崎さんは続けた。
「その“何者でもない時間”があったから、
やっと、“自分がやりたくないこと”と
“自分ができそうなこと”を、真面目に考えるようになりました」
“何者でもない時間”という言葉に、
山本さんの顔が頭に浮かぶ。
「それで、いろいろ調べたり、人に話を聞いたりして、
専門学校に行くことにしました。
“ここなら二年だったらなんとか通えるかも”っていう現実と、
“この分野なら興味が持てそう”という感覚の、
ギリギリのラインを狙って」
“ギリギリのライン”という表現が妙に生々しい。
「専門を出て、今の仕事について、
最初の会社とどっちが正解だったかと言われると──
正直、“分からない”です」
そこで、少しだけ笑いが起きた。
「給料だけ見たら、最初の会社のほうが良かったかもしれない。
安定だけ見たら、あのまま続けたほうがマシだったかもしれない。
でも、“自分で選んだ手応え”って意味では、
今の仕事のほうが、私は好きです」
宮崎さんは、少しだけ視線を上げた。
「今日、みんなに伝えたいのは──
“最初の一歩で全部決めろ”って話ではなくて、
“最初の一歩を、自分なりにちゃんと選んでほしい”ってことです」
空気が静かになる。
「やりたいことがハッキリある人は、その方向を目指せばいいと思います。
やりたいことがない人は、
“やりたくないこと”と“無理のない条件”から選んでも、全然いいと思います。
ただ、“なんとなく周りがそうしているから”とか、
“親に言われたから”だけで選ぶと、
あとから“これ、本当に自分の選択だったのかな”って、
私みたいに迷う時間が長くなるかもしれません」
その言葉は、
俺の胸にまっすぐ刺さってきた。
「あと、もう一つだけ。
“決めたあとに変える”こと自体は、別に悪いことじゃないです。
でも、“決めたときに何も考えてなかった”場合のやり直しは、
けっこうしんどい。
だからせめて、“そのときの自分なりに考えた跡”は残しておいてほしい」
“考えた跡”。
調査票の裏の落書きみたいなメモ帳が、頭に浮かぶ。
「その紙切れでも、
ノートの隅っこでもいい。
“あのとき、ここまでは考えて選んだんだ”って言えるものがあれば、
たぶん、あとからやり直すときも、
自分のことを嫌いにならずに済むと思うから」
そう言って、宮崎さんは一礼した。
「以上です。ありがとうございました」
拍手が起きる。
大盛り上がり、という感じではない。
でも、不思議と長く続いた。
◇
ガイダンスが終わって、
多目的室から出ようとしたところで、西尾先生に呼び止められた。
「安藤。ちょっと来い」
ドキッとして振り向くと、
そこには宮崎さんも一緒にいた。
「さっき話してた“進路迷い中代表”だ。安藤」
先生が余計な紹介をする。
「代表じゃないですからね」
抗議しつつも、一応頭を下げた。
「安藤あんどう 敦あつしです。
今日はありがとうございました」
「こちらこそ。話、聞いてくれてありがとう」
宮崎さんは、柔らかい笑顔で返してくれた。
西尾先生が、腕を組んで言う。
「こいつ、今“やりたいことはないけど、
やりたくないことリストは少しずつ書いてる”段階なんだ」
「へえ。いいですね、それ」
宮崎さんの目が、少しだけ興味深そうに光る。
「やりたくないこと、何が入ってるの?」
いきなり聞かれて、少し戸惑う。
「えっと……
体力仕事メインは無理で、
本読みっぱなしもきついし、
大人数の前でしゃべるのも苦手で……」
言いながら、自分で“わがままリストだなこれ”と思った。
「でも、その“苦手の自覚”って、すごく大事ですよ」
宮崎さんは、きっぱりと言った。
「私は、高校のとき、それすら分かってませんでしたから。
なんとなく“働く=えらい”みたいな気分だけで決めちゃったから、
あとでだいぶ苦労しました」
「……でも、今の仕事は好きなんですよね?」
さっきの話を思い出して尋ねると、
宮崎さんは少し考えてから頷いた。
「うん。“選び直した結果としては”好きです。
ただ、やっぱり“最初にちゃんと考えておけばよかったな”って思う部分もあるので、
今日はその反省を、みんなに押し付けに来ました」
冗談めかしてそう言うと、西尾先生が笑った。
「押し付けって言い方はどうなんだ」
「先生が呼んだんじゃないですか」
そんな掛け合いを見て、
ああ、本当にこの人は“元教え子なんだな”と思う。
「安藤くん」
宮崎さんが、改めてこっちを見た。
「“最初の一歩”を決めるの、怖い?」
少し間を置いてから、素直に答える。
「……怖いです。
間違えたらどうしようって、すぐ考えちゃうんで」
「うん。
それを“怖いです”って言えてる時点で、
たぶん、私の高校時代よりずっとマシですよ」
その言い方は、慰めというより、きちんとした評価に聞こえた。
「だからさ。
“間違えない選択”を探すより、
“そのときの自分なりに考えたって言える選択”を探してみてください。
もしそれがあとでズレてたとしても、
やり直すときの自分を、ちょっとだけ助けてくれるから」
「……はい」
返事をしながら、
胸の奥で何かがスッと落ち着いていくのを感じた。
――やりたいことがないなりに考えた“跡”を残しておく。
それが、未来の自分への保険みたいなものなら。
進路希望調査票の白い枠が、
前より少しだけ、“書き込んでもいい場所”に見えてきた。
(第8話 おわり)