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卒業生ガイダンスが終わったあと、
多目的室から教室に戻る廊下は、いつもより少しだけ静かだった。
「就職→専門って、やっぱキツそうだな」
「三年働いてからやり直すとか、メンタル持たんわ」
「でも、ああいう人の話のほうがリアルっちゃリアルだよな」
あちこちから、そんな声が聞こえる。
俺は、さっきメモ帳に書いた一文を頭の中で何度も繰り返していた。
――“そのときの自分なりに考えたって言える選択”。
宮崎さんが言った、その言葉。
「間違えない選択」じゃなくて、
「ちゃんと悩んだ痕跡のある選択」。
それなら、俺にも、いつかたどり着けるのかもしれない。
◇
家に帰ると、リビングのテーブルの上に、
例の奨学金チラシがまだ置いてあった。
その横には、父のネクタイと、妹の学校のプリントが雑に重なっている。
「おかえりー。ガイダンスどうだった?」
キッチンから母の声が飛んでくる。
「ただいま。……まあ、よかったよ」
靴を脱ぎながら答える。
「“よかったよ”って、いつものやつでしょ。
ちゃんと言葉にしてくれないと分かんないわよ」
宮崎さんと同じことを言われた気がして、思わず苦笑した。
「あとで話すよ。ご飯のときでいい?」
「はいはい。じゃあ早く宿題やってて」
母がそう言う横で、
妹がソファに寝転がりながらスマホをいじっている。
「兄ちゃん、今日は進路のやつ? 将来ニートにならない話?」
「うるさい。お前の進路もいずれ来るからな」
適当に返して、自分の部屋に上がった。
◇
夕飯のとき。
テーブルに味噌汁と焼き魚と、いつもの副菜が並ぶ。
テレビはついているけど音量は小さめで、
代わりに父の「ふうー」というため息が、やけに大きく聞こえた。
「今日、進路のやつあったんだろ?」
箸を動かしながら、父が言う。
「うん。卒業生の人が来て、話してくれて」
「どんな話だった?」
“よかった”で済まさないほうがいいのは、
さっき母に言われなくても分かっていた。
だから、できるだけ具体的に話してみる。
「高校出てすぐ就職したけど、
“ここで続けていく自分”がイメージできなくて、
三年くらいで会社辞めて、専門行き直して、
今は別の仕事してる人でさ」
宮崎さんの話を、かいつまんで説明する。
「一回決めたあとに変えるのは、悪いことじゃないけど、
“何も考えずに決めたあとにやり直すのはしんどい”って言ってた」
父は黙って聞いていた。
母は「うんうん」と相槌を打ちながら、お椀を並べていく。
「だから、“そのときの自分なりに考えた跡”を残しておけって。
紙切れでも、ノートの端っこでもいいから、って」
言いながら、自分の机の引き出しにあるメモ帳のことを思い出す。
『やりたくないこと』
『“決まってなくていい時間”を、ちゃんと使う』
『決まらない理由を、言葉にしておく』
昔の自分から見たら、
意味の分からない落書きかもしれない。
でも、今の自分には、少しだけ意味がある。
「……で、お前はどうなんだ?」
父が、ご飯茶碗を持ったままこちらを見る。
「今の時点で」
“どうなんだ”の中身は、
「何になりたい」でも「どこに行きたい」でもないのは分かっていた。
「まだ“ここに行きたいです”って大学は決められてない。
でも、“どの方向に行きたくないか”とか、
“どの進路が今の自分には無理そうか”は、前より分かってきた感じ」
できるだけ、山本さんと西尾先生の言葉を借りずに説明してみる。
「理系のガチガチのやつとか、
プレゼンばっかりする学部とかは、たぶん向いてない。
だから、文系で、社会系とか歴史系とか、
“今の勉強の延長でなんとかなる範囲”で考えようかなって」
父は少しだけ目を細めた。
「文系の、国公立か私立かって話か」
「うん。短大とか専門も、ゼロではないけど。
今のところは、“大学の文系寄り”が第一候補かなって」
母が、味噌汁をすすりながら口を開いた。
「この前もらったパンフレット、山本先生にも見せたの?」
「学費の話? 少しだけ。
“国公立は確かに安いけど、その分科目多いし、
レベルもそれなりに高いよ”って」
「そりゃそうだろうな」
父が苦笑いする。
「お父さんとしては、国公立行ってくれたら助かるけどな。
学費の意味では」
「あ、またそれ言ってる」
母がすかさずツッコむ。
「プレッシャーになるって言ったでしょ」
「いや、“助かる”って話で、“義務”って話じゃないからな?
そこはちゃんと分けてるつもりなんだけど」
父と母のやり取りを聞きながら、
自分の中でも、さっき山本さんが描いた「地図」の紙が浮かぶ。
1.地元の国公立文系
2.私立文系(社会系・歴史系・法律・経済あたり)
3.短大・専門(あとで調べる)
「……国公立のほうが、学費が現実的なのは分かってる。
お金の話も、正直、気にはなってる」
自分でも驚くくらい、素直にそう言えた。
「でもさ。
“国公立に行ける実力がないのに無理する”のも違うと思うし、
“とりあえず私立でいいや”って感覚だけで選ぶのも違うと思ってて」
父も母も、何も言わずに聞いている。
「だから今は、
“行けるなら国公立に行きたい。
でも、そのためにどれくらい頑張る必要があって、
それに自分がどこまで本気で乗れるのか”を、
ちゃんと見たいって感じ」
言いながら、
自分の中でようやく言葉になった気がした。
父が、ビールのグラスをテーブルに置いた。
「……そうやって考えてるなら、
国公立でも私立でも、どっちでも文句言わん」
いつになく真面目な声だった。
「“なんとなく”で決めて“なんとなく”奨学金借りて、
“なんとなく”四年過ごしましたってなるのが、一番怖い。
お前がちゃんと考えた結果なら、
借金背負おうが、家計がちょっと苦しくなろうが、
親としては覚悟する」
「……借金って、はっきり言うなよ」
思わず苦笑すると、父も少し笑った。
「現実だからな。
でも、現実を知ってるうえで選ぶなら、それでいい」
母が、少しだけ口を挟む。
「お父さんとお母さんもさ、
正直、余裕があるわけじゃないよ。
でも、“大学に行かないで後悔する”より、
“行ってみてから考える”ほうが、
敦には合ってるんじゃないかなって思ってる」
「……行ってみてから考える、か」
宮崎さんの「決めたあと変えるのもアリ」という言葉と、
どこかでつながる。
「もちろん、行くためには勉強しないとだけどね」
妹が、そこでようやく会話に割り込んできた。
「兄ちゃんが大学行ったらさ、
うちの“教育予算”は私にどれくらい残るの?」
「予算とか言うな」
笑いながら言うと、父が苦笑いした。
「まあ、お前の分もちゃんと考えるよ。
だから兄貴の進路のこと、一緒に心配しとけ」
「やだよ、めんどくさい」
そう言いながらも、
妹はどこか楽しそうだった。
◇
食器を片付けて自室に戻ると、
机の上にメモ帳を広げた。
『やりたくないこと』
『“決まってなくていい時間”を、ちゃんと使う』
『決まらない理由を、言葉にしておく』
その下に、新しい行を作る。
少し迷ってから、ゆっくり書いた。
『家の事情も、自分の事情も、ちゃんと並べてから決める』
書いた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
家の事情=お金。
自分の事情=得意不得意とか、やりたくないこととか、怖さとか。
どっちか片方だけで決めたら、
たぶんどこかで歪む。
「……とりあえず、今は“国公立文系”を第一候補にしてみるか」
声に出すと、
思っていたよりも拒否感はなかった。
“絶対そこじゃなきゃ嫌だ”でもないし、
“どこでもいい”でもない。
その中間に、一つの仮置きができた感覚。
進路希望調査票の「第一希望」の欄を思い浮かべる。
――まだ、具体的な大学名を書く勇気はない。
でも、“この枠にはいつか何か書くつもりでいる”ところまでは、来た。
メモ帳を閉じて、机の上に置く。
少しだけ深く息を吐いてから、
久しぶりに、数学の問題集を開いた。
やりたいことは相変わらず見つかっていない。
でも、“やりたくない未来”から少しずつ離れるために、
今できることがあるのかもしれない。