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「どこに行ってたんだ? スマホに連絡をしたのに着信やメッセージに反応もしないで」
「ごめんなさい、急に麻理に呼び出されて。ちょっとバタバタしてて着信にも気付かなかったの」
結局、あの喫茶店を出た後に私はタクシーを呼んでこの家に帰ってきた。麻理にはすでに連絡していて今日の事は口裏を合わせてもらうよう頼んでいる。
疾しい事はしていないが、なぜ出て行ったと聞かれても答えられないからこうするしかなかったのだ。今の私には岳紘さんに「他の誰を愛してるのか」と問い詰める勇気はなくて。
「それなら一言、言ってくれれば……」
「電話の邪魔をしたくなかったの、私も急いでいたし」
その言葉を聞いて岳紘さんが一瞬だけ動揺した表情を見せたのを、私は見逃さなかった。つまり、聞かれては困ることを話していた。そういう事なのだろう。
……他に愛する人がいるのを、私に知られたら困るという事なのね。そう考えるだけで胸は針で刺されるように痛いし、心はギスギスと音を立てているようだ。
「そうかもしれないが、俺はただ雫の事が心配で……」
「本当にごめんなさい、今日は疲れてしまったからもう休むわね」
まだ何かを言いたそうにしている岳紘さんをリビングに残して、私はそのまま寝室へと逃げ込んだ。とてもじゃないけれど、冷静に彼と話せるような精神状態には戻せなかったから。
頭の中がゴチャゴチャで、もうどうすればいいのか分からなくて……そのままベッドにうつ伏せになり瞼を閉じると、すぐに意識を失った。
ピピッ、ピピッ、ピピッ……
聞きなれたアラーム音で目が覚める、どうやら昨日はあのままベッドで眠ってしまったいたらしい。シャツがクシャクシャになってしまったかもしれないと服を確認すると、何故かいつものパジャマに着替えていて。
「どうして……」
寝ぼけて着替えたとは思えない、だとすれば考えられる可能性は一つしかなく。けれども何故岳紘さんがそんな事をしたのかが分からない。いつもならば必要以上には私に触れようとはしないのに。
けれどもそんな事をのんびり考えている暇はない、朝食の支度や仕事の準備とやることはたくさんあるのだから。私はさっさとパジャマの釦を外すと、着替えをすませキッチンへと向かった。
「え? どういうこと」
いつもなら綺麗に片付けられている筈のテーブル、その上には一人前の朝食が用意されていて。不思議に思ってよく見ると、料理の横に小さなメモ用紙が置いてあった。
彼がどうしてこんな事を? でもこの家に住んでいるのは私と夫だけ、混乱しながらも手に取ったメモ用紙を開いて読んでみた。
『疲れているようだから、今朝の用意は俺がやっておく。雫はゆっくりして仕事に行くと良い』
今までこんな事をしてくれたことはない。それなりに気を使ってくれてはいたけれど、それでも昨日今日と岳紘さんの行動は明らかにいつもと違っていた。
浮気をしている男性は妻に優しくなるなんて、そんな話を信じるつもりはなかったけれど。こうもタイミングが合っていれば、もうそうだとしか思えなくて。
昨日の電話を聞いてなければ、単純に喜んでいたかもしれない。岳紘さんが私に気を使って朝食を作ってくれたと、麻理にもすぐに話したに違いない。だけど……
とても食べる気になれない、夫が用意してくれた朝食。それでも捨てることはしたくなくて、何も考えないようにして口に運ぶしかなかった。片付けをする時、隣同士に並べられた夫婦のマグカップを見て何とも言えない気持ちになる。夫はどんな思いでこれを並べて置いたのか、と。
「他に、好きな女性がいるくせに……」
一緒に暮らしてきた間、私の存在は彼にとってどんなものだったのだろう? 長いようで短い一年、私を女として見れないと言った彼が、別の女性を愛してしまうには十分な時間だったのかもしれない。
これから、私はどうなるのだろう?
互いの両親に勧められたこの結婚は、二人だけの繋がりではなく親の経営する会社まで巻き込んでいる。今さら離婚したいなどと言っても、それは難しいはず。そして岳紘さん自身も、ルールを決める際に「離婚するつもりはない」とはっきり言っていたのだから。
「もう、考えたくない。何も……考えられない」
一人の部屋に零れる弱音は、誰にも拾われることはない。こうなるのならば、昨日奥野君に頼ってしまえばよかったのだろうか? もし同じ場面を繰り返したとしても、自分にはそんなことは出来ないと頭では分かっていたけれど。