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商店街の端っこ、看板の文字が半分剥げかけた「ツクモ・クリーニング」には、少し変わった客が訪れる。ここでは服のシミ抜きだけでなく、**「持ち主に染み付いた記憶」**を落としてくれるという噂があった。
主人公の亮介は、別れた恋人と最後に行った旅行の記憶が苦しくて、その店を訪れた。
カウンターには、銀髪をきっちりまとめた老婆が座っている。 「いらっしゃい。何を落としたいんだい?」
「……去年の冬、函館で見た夜景の記憶を。それと思い出すたびに胸が痛む感覚も、全部」
老婆は眼鏡をずらし、亮介をじろりと見た。 「夜景の青さと、冷たい空気。それから彼女の香水の匂い……。かなり頑固な汚れだね。生地(心)を傷めずに落とすには、少し時間がかかるよ」
老婆は亮介の額に指先を当てると、シュッと霧吹きで水をかけるような仕草をした。 不思議なことに、亮介の頭の中にあった鮮やかな景色が、少しずつモノクロームに変わっていく。
彼女の笑い声が、遠くの波音に。
繋いだ手の温もりが、ただの摩擦熱に。
「ずっと一緒」という約束が、ただの文字列に。
一分後。亮介の心は、驚くほど軽くなっていた。 「……消えました。ありがとうございます」
代金を払い、店を出ようとした亮介に、老婆が声をかけた。 「兄さん。その記憶、完全に捨てたわけじゃない。**『思い出の裏地』**に縫い付けておいたからね」
「え?」 「今は真っ白な方が楽だろう。でも、いつか人生が寒くなった時、その裏地が君を温めるかもしれない。その時はまた、裏返しに着ればいいんだよ」
亮介は自分の胸を叩いてみた。 そこには何もなくなったはずなのに、ほんの少しだけ、春の陽だまりのような微かな重みが残っていた。