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■第1話「空白の作家」
「また書けなかったわけですね」
まるで夢の中で聞いたような声に、真雪(まゆき)は顔をしかめた。彼女は肩までの黒髪を乱しながら、無意識に指先で万年筆のキャップを握っていた。原稿用紙は何も書かれていない。灯りもないはずの机が、ぼんやりとした光に照らされている。
「……ここは、どこ?」
立ち上がると、壁一面に本棚がそびえていた。天井が見えない。なのに足音はやけに静かだ。空気が重たいようで、ふわふわと軽いようでもある。不思議な書庫。夢にしては細部が妙に現実的だった。
そんな中に立っていたのが、ブックレイだった。金属のような衣の隙間から、まばらに本のページがのぞく。顔はのっぺらぼうで、唯一、瞳だけがくっきりと“文字”でできているように見えた。
「あなたに、足りない物語を渡しに来ました」
差し出されたのは、一冊の薄い本。表紙には見覚えがあった。真雪が10年前に途中で破り捨てた草稿。その物語は、愛する登場人物に“裏切り”を書かせる展開で──書けなかった、書きたくなかった、そんな終わりだった。
「この物語に、あなたは“入る”ことになります」
「読むんじゃ、ないの?」
「いえ。“書き直す”ための物語ではなく、“選び直す”ための物語です」
扉が開いた。光が射し込む。どこか遠くで、インクの滴る音がした。真雪の足が、その光に引き寄せられていく。
物語の奥で、彼女を待っているのは——書かなかった自分の“結末”だった。