テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「雫ちょっといいだろうか? その、君が資格の試験に合格したら二人で一緒に出掛けたいと思っているんだが」
「え? いきなり、どうして?」
そんな岳紘さんからの提案に、私は驚いて渡されかけていたコーヒーのカップを落としそうになる。今まで一緒に出掛けたことは何度かあったが、それは全てそうする必要性がある時だけで。
だけど今回のはまるでデートの誘いみたいで、急な話に胸がドキドキと煩くなる。戸惑っているけど内心は嬉しいのだ、夫からこうして誘われたことが。
「その、合格祝いを何か渡したいと思ったんだけど……どれだけ考えても、君が喜びそうなものが分からなくて。それなら一緒に選んだ方が良いんじゃないかって」
「岳紘さんが私に? そんな事を考えてくれていたの?」
予想もしなかった彼の言葉に、私は胸が高鳴るのを抑えられなくて。ああ、やっぱり私はこの人がどうしようもなく好きなんだって思い知らされる。
これだけの事で、私の心を完全に掴んでしまうこの人はやっぱり狡い。あれほど固く決心した気持ちが、言葉一つでグラグラと揺れてしまいそうになるから。
「ああ、雫が嫌でなければ一緒に出掛けたい。どうだろうか?」
「とても嬉しいわ、なら絶対に合格しなきゃね。その日を楽しみにしてるわ」
来るかどうかわからない。そんな未来のデートを想像し切なさを感じながら、それでも笑ってそう答えていた。
「それじゃあ、俺は先に風呂を済ませてこようかな。くれぐれも無理はするなよ?」
「大丈夫よ、いってらっしゃい」
いつもより機嫌の良さそうな岳紘さんはそのままバスルームへと向かっていく。そんな彼の後姿を見つめながら、私の心は複雑だった。
夫は私が奥野君と協力して、彼の浮気の証拠を掴もうとしてるとは思いもしないだろう。
貴方の言葉一つで一喜一憂する、そんな素直で馬鹿な妻でいられなくて本当にごめんなさい。
『木曜日、○○駅前ビルのカフェに15時に来てください』
『必ず、その時間までに行きます』
奥野君からのメッセージに返事をして、そのままスマホの電源を切った。
きっと岳紘さんとのデートは実現しない、先に奥野君と約束した木曜日がやってくるのだから。きっとその日を境に私達夫婦は今まで通りではいられなくなる、だから……
「でも、先に思い出だけは欲しかったかもね」
岳紘さんと出会って、彼に恋していた時間を後悔はしていない。でも二人で作った思い出はあまりにも少なくて、きっと片手で足りてしまう。そのことがちょっとだけ悲しくて、シクシクと心が痛んだ。
これから先、岳紘さんはどんな女性と思い出を重ねていくのか想像すると涙が滲んで。この胸の痛みや心の重苦しさも、全てが終わってなくなることを願うしか出来なかった。
妙に寝苦しい夜、誰かの話声が聞こえた気がして寝返りを打ってもう一度寝直そうとした。遅くまで勉強をしていたのだから少しでも眠っておかなくてはならない。それなのに心がざわざわして、どんどん意識が覚醒していく。
「……なに?」
話し声が聞こえてくるのは隣から、つまり岳紘さんの寝室だ。彼が部屋で電話をすることは滅多になく、普段は私から隠れるように話している筈なのに。
壁に近付いて耳を澄ませば、彼の話も聞けるかもしれない。そんな事をしても何にもならないと分かっているのに、いつの間にか私は足音を忍ばせ壁に耳をつけていた。
「……んで、こんな時間に? いや、電話が迷惑ってわけじゃないけれど。旦那さんが心配しないのかと思ってさ」
旦那さん? いま彼は旦那さんが心配しないのかと聞いていた、つまり電話の相手は既婚者の女性ということなのだろうか。時計を確認すればもう二時を過ぎている、普通の主婦が電話をしてくるような時間じゃない。
「え? ……いや、それはどうだろう。雫? 彼女はもう眠ってるけれど、それがどうかしたのか」
私の名前、電話の相手は妻の存在を知っている? ならば何故こんな時間に、わざわざ夫に電話をかけてくるの。ぞわぞわとした気持ちの悪い感触が背中を伝っていく。
自分の存在をアピールしているのか、それとも……考えれば考えるほど吐き気がしてきて、このままお手洗いに駆け込もうかと思った時。
「……分かった、今から会いに行くよ。だからそこから動かないで待ってて」
信じられないような言葉だった。でもその台詞の後すぐに岳紘さんは寝室を出ると、玄関の扉を開けてそのまま外へと出て行ってしまった。
こんな深夜に、本当に愛する女性に会いに行くために――