テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
鏡の前に立って、深呼吸を一つ。私の顔は、まだ崩れていない。
けれど、内側で何かが軋む音がする。
昨日のことが、頭から離れない。
瀬川玲那。
彼女の名前が、教室の空気を浸食しはじめた。
それを意図的に煽っているのは、間違いなく――西園寺。
⸻
「最近、片倉さんってなんか元気なくない?」
「前の玲那ちゃんと似てるっていうか……」
……やめて。
私は、何も間違ってない。
⸻
放課後。
人気のない図書室の奥、私は静かに本を開いていた。
ページをめくるふりをしながら、呼吸を整える。
視線の端に、ひとつの影が映る。
「……静かだね。ここ、気に入った?」
その声に、心臓が跳ねた。
西園寺。
いつからそこに?
「……偶然?」
「ううん、違うよ。きみがここに来るの、知ってたから」
彼は笑いながら言う。
まるで、「知ってて当然だろ」とでも言いたげに。
「……なんで、私の行動を追ってるの?」
「追ってるんじゃないよ、見てるんだよ。ずっと」
「……」
「片倉結惟さん。きみ、空気を読むのが得意だよね」
私は返事をしない。
彼の声が静かに続く。
「僕、観察するのが得意なんだ。人間の“空気の流れ”って、見えるんだよ。
いつ誰が、どこで、どんな顔をしたか――全部、匂いみたいに」
不気味な沈黙。
それでも彼は笑ったまま、言葉を重ねる。
「玲那ちゃん、きみのこと好きだったよね」
私は少しだけ目を伏せたあと、薄く笑った。
「……でも、私とあの子は違った。
見てる景色も、歩いてる場所も。
たぶん、最初から“同じ世界”にはいなかったよ」
「ふうん」と西園寺は、感情のない声で返す。
「だから?」とでも言いたげな、その反応が妙に癇に障る。
「だから、何もできなかった。
……する必要もなかった。私には関係ない世界の話」
「うん、きみらしいね」と西園寺は笑う。
けれど、その笑みはどこか――悲しそうにも見えた。
「でもさ、“違う世界”にいるからって、
人が壊れていい理由にはならないよね?」
冷たい汗が首筋を伝う。
彼の声は優しい。なのに、指先で喉元を撫でるように鋭い。
「きみの空気、そろそろ限界が来てる」
「なに、それ」
「人って、“支配”し続けると、必ず“綻び”が出るんだよ。
だって、感情って本来“操るもの”じゃなくて、“持ってるもの”でしょ?」
彼の指が、本のページを一枚だけ静かにめくった。
「玲那ちゃん、最後に涙を流したんだって。誰も見てなかったけど、僕だけ知ってる」
私は、もう本を開いていられなかった。
ページが、震える手から滑り落ちた。
「……なにが言いたいの?」
「そろそろ、交代の時期かなって。
“空気の支配者”は、次の支配者に座を渡す。自然の流れだよ」
彼の声は、図書室の空気よりも冷たく澄んでいた。
⸻
帰り道。
風が吹いて、髪が乱れる。
目を閉じても、西園寺の言葉が脳内でこだまする。
(私が……操られてる?)
いや、そんなはずない。
私が“空気”を支配している。
そうじゃなきゃ、おかしい。
でも――
彼の目は、すべてを見ていた。
それが、怖い。