アバドンが精気を抜かれたように固まって沈黙する。数秒の間があり、断られるか? と一瞬の不安が胸にふわっと湧いたところで、彼はあっけらかんと。
『構わん。ワタシにとっては些細なことだ』
じろりとイルネスを見る。彼には、はっきりと崩れかけた魔核のくすんだ輝きが映っていた。放っておけば死ぬことも、どうやったら治癒するのかも知っている。連れて行きたい理由が明確で、彼女が捕食しなければならない魔物の数が膨大であるのも考えれば、どちらにもリスクの伴う話だ。
旅先で運悪くどちらも死ぬ。それもまた面白い、と。
『では、準備はよろしいですね? どこに飛ばすかは、行ってからのお楽しみ~! と、いうわけで少し眠ってもらいますよ、お二人共ね』
杖がとんと床を叩いた直後、彼女たちは強烈な眠気に襲われて意識を奪われる。アバドンが軽く手を翳してゆらゆらと振れば、二人の身体は闇に包まれていく。完全に黒く塗りつぶされたら、煙のようになって消えた。
『さて、お荷物の配達させていただきましょ。よっこらしょ』
トランクを手に、アバドンは即座に二人を飛ばした先へ向かう。着いたのは深い森の、やや開けた場所だ。ヒルデガルドとイルネスは並んで眠っており、荷物をそっと傍に置く。それからヒルデガルドの額に指先をちょんとつけて──。
『まあ、あまり無理な条件では可哀想だ。イルネス・ヴァーミリオンがいるのなら、お互いに世話を焼くようにしてやろう。なに、これもまた新しい冒険になる。生き残って帰ってくるか、それとも死体として土に還るか。今から楽しみだねえ』
すうすうと眠っている二人は、数時間もすれば目を覚ます。あとは彼女たち次第だ、と立ち去ろうとしたとき、すぐ傍に鼻息荒く獲物をつけ狙う魔物の殺気を感じ取った。振り返ってみれば、巨大な身体を持ったオークの姿がある。
『ほお、普通より巨大な個体だ。単眼のギガンテスをも超える巨躯に、オークとは思えぬ筋肉量。実に素晴らしいですねえ。オークロード? いや、あるいはデミゴッドになる素質を持っていたり?……まあ、どちらでもいい。さっさと帰れ帰れ。ブタちゃんにやるエサなんかここにはないよ!』
あからさまに鬱陶しそうに、シッシッ、と手で追い払おうとするが、相手はたとえロード級であっても知性の低いオークだ。アバドンになど目もくれず、やや興奮した様子でヒルデガルドたちを見つめて、ふごふご鼻を鳴らしている。
『ん、ああ~、そうか。確かオークは繁殖能力が高いけど、個体で一度に一匹だから他種族まで利用するんだったな。まったく下品な連中だ、目の前の敵よりも獲物を優先的に狙うなど笑止千万。だから嫌いなんだよ、醜いだけの獣め』
醜悪で、無様で、なによりも嫌いな魔物。知性どころか品性すら持ち合わせていない本能の獣。いくら力が強くとも、コボルトに比べてあまりにも下衆だと彼は心底からオークという生き物を蔑む。
僅かに手をあげ、人差し指をぴんと立てる。オークが動き出した瞬間、彼は指を、ぐんっ、と曲げる。空から降った数本の巨大な氷の槍が、無惨にオークを貫いて地面に突きささり、拘束する杭となった。たとえ種の中で強い個体だとしても、デミゴッドである彼には、あたりをうろつく小さな虫と変わらない。
『やれやれ、せっかく良い遊びを見つけたってときに邪魔をされるのは不愉快だ。ゲームが始まるまでは結界を張っておいてやろう。ふふ、特別サービスだ』
薄紫色の正方形の結界は二人を入れて、かなり余裕のある大きさだ。そのうえアバドンの魔力によって、並のデミゴッドでは響きもしない堅固さで、リッチ特有の周囲への気配遮断も行われている。彼女たちが内側から触れれば魔力が反応して崩れる仕組みになっており、中にいる限りは安全だ。
「おやおや、わちきの縄張りがえろう腐った臭いがする思うて様子を確かめに来てみたら、なんぞ、珍しい客人がいるではないか」
アバドンの指先がぴくっと動く。
『……おおっと、随分と強い奴が出張って来たもんだ。とはいえ、ワタシに争うつもりはないんだが……まさか、この娘たちを餌にするおつもりかしらん?』
長く白い髪。白い肌。琥珀色の瞳。鋭い牙。なにより特徴的なのは、額から伸びる二本のすらりとした尖鋭な角。頬から鼻背《びはい》を抜けてまっすぐ紅を塗っている細身の女。彩りのある赤と黒のローブを腰紐で縛った妙な服を着ていて、アバドンは彼女から危険な雰囲気を感じ取った。
「なはは! わちきは戦いとうて足を運んだんじゃあない。さっきも言うたろう、小僧。腐った臭いの根本を確かめにきた、それだけのことよ。だが貴様が所望するというのでありゃあ、やぶさかではない。どうするね?」
ただならぬ気配。アバドンも『ここでやり合うのは面倒』と思うほどに、その女人からは異様な強さがひしと伝わって来た。
『戦う気がないなら、別にワタシも用はないんだよ。こいつらに手を出されちゃ困るっていうだけで、それ以上でもそれ以下でもない。鬼人《オーガ》ってのは人をも喰らうと聞いてるからね。安易に信用もできないし?』
明らかな魔物。しかし、普通の魔物とは違う、その異質な雰囲気に警戒する。杖を握って、いつでも魔法を撃てるように準備した瞬間、女人はくっくっと笑いながら「信用などされずとも結構。わちきは帰るでな」と、白い霧を周囲に満たす。
「だがのう、小僧。次にわちきの縄張りに安易に踏み入れば、その頭蓋を砕いてやる。覚悟しておけ。わちきは嘘は言わねえ、よく考えろ」
忠告を残して霧は晴れる。アバドンは大きなため息をつく。
『うーん。鬼人が中心の島国とは知っていたが、あれほどの逸材《バケモノ》がいたとは……ふっ、クククッ、これは楽しみになってまいりました!……と、いうわけで、ワタシもそろそろ退散といたしますかねえ。では、ご武運を!』
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