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第七話
「さよならを言う準備は、まだできていない」
名前を呼ぶという行為は、
それだけで祈りに似ている。
呼び止めたい。
忘れたくない。
ここにいてほしい。
それら全部を、たった一音に込めてしまうから。
その夜、雨が降った。
夏にしては珍しい、しとしととした静かな雨。
星見坂町の街灯が、濡れたアスファルトに滲んで映る。
灯台公園の東屋に、僕は立っていた。
約束の時間。
約束の場所。
――彼女は、すでにそこにいた。
「遅かったね」
白いワンピース。
でも今日は、少しだけ色が淡い。
「……ごめん」
「いいよ」
彼女は微笑む。
その笑顔は、
もう“消える準備”をしている人の顔だった。
「ねえ、恒一」
雨音の合間に、彼女は言った。
「思い出したでしょ」
否定できなかった。
昨日、家に帰ってから――
記憶は、止まらなかった。
夏祭りの提灯。
金魚すくい。
迷子。
泣き声。
小さな手を、必死に握って。
名前を、何度も呼んだ。
「……ああ」
絞り出すように答える。
「全部」
彼女は、ほっとしたように息を吐いた。
「そっか」
そして、少しだけ寂しそうに笑う。
「じゃあ、もう――分かってるよね」
分かっている。
分かっているから、
ここに来た。
「私の名前はね」
彼女は、雨の向こうを見る。
「朝倉 夏音(あさくら なつね)」
胸が、強く締めつけられた。
「あなたが、つけてくれた名前」
「……俺が?」
「うん」
彼女は頷く。
「“夏に出会ったから”って」
喉の奥が、熱くなる。
「……覚えてる」
やっと、言えた。
彼女は、少し驚いた顔をしてから、
嬉しそうに目を細めた。
「よかった」
その瞬間。
彼女の輪郭が、はっきりと揺れた。
雨粒が、体をすり抜ける。
存在が、確実に“終わり”へ向かっている。
「……ごめん」
気づけば、そう言っていた。
「約束、守れなかった」
ずっと一緒にいよう。
そう言ったのは、確かに僕だ。
彼女は、首を横に振った。
「違うよ」
優しく、でもはっきりと。
「あなたは、ちゃんと一緒にいてくれた」
少し、間を置いて。
「私が、夏に縛られてただけ」
その言葉は、残酷なくらい正しかった。
「ねえ、恒一」
彼女は、僕の前に立つ。
もう、触れられそうで触れられない距離。
「最後に、一つだけお願い」
「……何でも言え」
即答だった。
彼女は、少し照れたように笑う。
「私を、“過去”にして」
胸が、砕けた。
「ちゃんと、思い出にして」
「……それは」
声が、震える。
「忘れるってことか?」
「違う」
彼女は、静かに言う。
「大事にするってこと」
その違いが、あまりにも残酷だった。
「私はね」
彼女は、胸に手を当てる。
「あなたの“最初の恋”でいられた」
それだけで、十分だった。
「でも」
一歩、後ろに下がる。
「あなたには、“今”がある」
美咲の顔が、浮かぶ。
澪の言葉が、蘇る。
春斗の、何気ない笑顔。
「……ずるいな」
思わず、呟く。
「最後まで、優しいなんて」
彼女は、少し困ったように笑った。
「そうしないと」
「さよなら、言えないでしょ」
雨が、少し弱まった。
東屋の外で、足音がする。
「……恒一?」
美咲だった。
傘を差し、こちらを見ている。
彼女の視線は――
確かに、夏音を捉えていた。
「……見えるの?」
美咲は、ゆっくり頷く。
「今なら」
そして、夏音を見る。
「……この人、なんだね」
夏音は、少し驚いてから、微笑んだ。
「はじめまして」
美咲は、ぎゅっと傘を握る。
「……さようなら、だよね」
その一言に、
夏音は、深く頭を下げた。
「ありがとう」
「恒一を、大事にしてくれて」
美咲の目に、涙が溜まる。
「……ずるい」
「分かってる」
二人は、短い沈黙を共有した。
女の子同士にしか分からない、
感情の交差点。
夏音が、最後に僕を見る。
「呼んで」
「……え?」
「ちゃんと」
覚悟は、できていなかった。
それでも。
「……夏音」
名前を呼んだ瞬間。
風が、吹き抜けた。
雨が止み、
雲の隙間から、星が一つ覗く。
彼女の体が、光に溶けていく。
「ありがとう、恒一」
その声は、もう遠い。
「あなたの夏で、いられて――幸せだった」
そして。
彼女は、確かに“過去”になった。
静寂。
灯台の光だけが、回っている。
「……行っちゃったね」
美咲の声。
「ああ」
それしか言えなかった。
「ねえ」
美咲は、そっと僕の袖を掴む。
「泣いていいよ」
その一言で、
堰が切れた。
声を殺して泣く僕の横で、
美咲は、何も言わずに立っていてくれた。
翌朝。
教室の、五人目の席。
机は、もうなかった。
最初から、存在しなかったみたいに。
でも。
胸の奥に、確かに残っている。
忘れられない夏の名前。
そして、僕は歩き出す。
今の時間へ。
新しい夏へ。
彼女が、願った未来へ。
――第一部・完――