しばらく、私はそのまま窓辺に立っていたけれど、外を見て「雨降ってるね」とか「梅雨が始まったね」と言うでもなく、ただ黙ってぼんやりとしていた。
けれどこのままじゃ、せっかく尊さんが淹れてくれたコーヒーが冷めてしまうと、緩慢になった思考を動かし、モソリと彼の腕の中で体を反転させる。
「ん? 抱っこか?」
「……抱っこ……」
そのまま私はぎゅー……、と尊さんに抱きついて脱力する。
「よしよし。梅雨時期になって不調が始まったな」
尊さんは私を抱き上げ、ソファまで連れて行くと私を膝の上に載せたまま「ほれ」とカフェオレのマグカップを渡してくれる。
彼が自分のマグカップを手にすると、私は小さく「チンチン……」と言って乾杯した。
尊さんは「ぶふ……っ」と噴き出し、脱力する。
「元気がなくてもお前は愉快な女だよ」
そのまま、私たちは黙ってコーヒーを飲んでいた。
「……六月病……、なんちゃって」
「カタツムリなら、元気になる時期だけどなぁ」
「んー……」
私はカフェオレを飲んでカップをテーブルの上に置くと、へちゃりと尊さんに抱きついた。
そのまま、私はしばらく尊さんの鼓動を感じながら黙っていた。
(分かってる。これは毎年の事で、黙って耐えていたら通り過ぎる事。梅雨時期なんて一か月ぐらい我慢してたら終わる。……一か月なんて毎日一生懸命過ごしてたらすぐだし……)
自分に言い聞かせながらも、私は尊さんの胸板にぐりぐりと顔を押しつける。
「髪、ボサボサになるぞ」
「……梅雨時期になった時点で、ボンバーヘッドは確定ですよ。尊さんも一緒にボンバー、ミコボン、アカボン」
「……ちょっと可愛いじゃねぇか……」
尊さんはクスッと笑って、自分のマグカップをテーブルの上に置く。
私はそのまま、彼に抱きついてうーうーうなっていた。
「しんどいなら、梅雨休暇でも出してやりたいけどなぁ……」
「無理矢理にでも働くから、気が紛れるんですよ。家にいてぼんやりしてたら、もっと色々考えてしまいそうです」
「まぁな。……つらい時ほどがむしゃらに動いていたら、いつか霧が晴れてたって事もある」
そう言ったあと、尊さんはポンポンと私の後頭部を撫でる。
「でも、つらかったら無理せず泣き言いってくれよ。全部受け止める度量はあるつもりだから」
「ん……」
私は小さく返事をし、何度目になるか分からない溜め息をつく。
しばらく尊さんのぬくもりや匂いを感じて自分を落ち着かせていたけれど、自分を叱咤すべく言葉を口にする。
「……私、側に尊さんがいてくれる今こそ、《《これ》》を乗り越えないといけないと思うんです。結婚する前だから、……全部乗り越えたい」
尊さんはギュッと私を抱き締め、ポンポンと背中を叩いた。
「朱里が勇気を出して前進するなら、俺は何でもする。お前のトラウマを解消する事はできないかもしれないけど、側にいて手を握るぐらいならするよ」
「ん……」
彼から勇気をもらった私は、目を閉じて上石神井に住んでいた頃を思い出す。
よく両親と一緒に石神井公園に行ったし、自転車で走り回っていた。
母と一緒に歩いてスーパーに行って、『おやつは一つだけ』って怒られたり。
父はそんな私と母を優しく見守ってくれる人だったと思う。
小学生までの記憶はすぐ思い出せるのに、中学校に上がったあとはぼんやりと霧に包まれたようだ。
恵や昭人と過ごしていた事や、学校で少し浮いていた事も思い出せる。
でも家庭で自分がどう過ごしていたのか、どう振る舞っていたのかは思い出せない。
今までは思い出せない事を放置していたけれど――。
「……尊さん」
「ん?」
「……私、前に住んでいた家の近くに行ってみたい。……上石神井の、……賃貸マンションがあった所」
それを聞き、尊さんは心配そうに眉を寄せた。
「ずっと避けてたけど、今が向き合う時なんだと思う。……ボロボロになるかもしれないし、思い出せないままかもしれない。……でも、行ってみないと分からない」
「……分かった。一緒に行こう」
私は応えてくれた尊さんの手を、ギュッと握る。
先日昭人にやられた、目の前にてるてる坊主をぶら下げられた光景が脳裏に蘇る。
紫陽花、蛙、カタツムリ、てるてる坊主、雨、傘、雨音、車のタイヤが水を跳ねる音……。
心の底に封じられていたものが、少しずつ動き出すのを感じた。
コメント
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ミコボン・アカボン・・・可愛いけども♥️🥹