ダフネの指先が夜着の前を開くたび、空気がひやりと揺れた。
――だが、セレンの瞳はまったく揺れなかった。
むしろ、黒みを帯びたルビーのように静まり返り、底にわずかな光だけが沈み込んでいく。
「……ダフネ嬢。君は誤解している」
低く、けれど突き放すでもない声。
ダフネがその気配に怯んだ一瞬――セレンの指先が、するりとダフネの手首を掴んだ。
優しいのに、決して逃がさない強さ。
「僕は――君を傷つける気はない。でも、受け入れる気もない」
ダフネの胸元がさらけ出される寸前で、セレンはふわりとダフネの夜着の襟を閉じた。
その仕草は優雅で、どこか神聖なものをまとってすらいる。
「リリアンナ嬢と君の話は……いくらでも聞こう。だけどそれは〝そういうこと〟をしなくても得られることだよ」
ダフネの外したボタンをひとつひとつ上から丁寧に留めて行きながら「自分を粗末にするものじゃない」と小さく吐息を落とす。
イスグラン帝国民であるダフネは知らないけれど、セレン――ことセレノ・アルヴェイン・ノルディールが住むマーロケリー国では婚前交渉を忌避する傾向がある。殊に皇室ともなればそれは顕著で、花嫁は純潔でなければならないとすら言われている。
もっとも、民草の方はその限りではないのだが、皇太子であるセレノはその辺りが割と潔癖なのだ。ある意味、もしも婚前交渉を持ってしまったならば、その相手を娶らねばならないとすら思っている。
「……っ、でも……っ」
ダフネは震える唇で言葉を紡ぐ。
泣き落としとも、媚びともつかない、粘つく感情の匂い。
「私……っ、誰にも必要とされていないんです……。セレン様だけが……優しかった……っ。だから……今夜だけで、いいから……お願い……」
そう言いながら、再びセレンへ身を寄せる。
細い腕が彼の胸へ触れ――。
(……厄介だな)
セレノの美しい顔に、ほんの一瞬だけそんな困惑の色が走った。
このまま押し返せば泣き叫ぶだろう。
少々声を上げても先ほど放った〝静寂のヴェール〟の効果で、廊下の衛兵は部屋へ踏み込んでは来ない。
だが、逆にそれが仇になっている気がした。
(いっそ、衛兵に彼女を外へ追い出してもらった方がいい気がする……)
強く拒絶しすぎれば、ダフネの女性としての尊厳を傷付けてしまいかねない。そんなことをすれば、後で何を言い出すか分からない危うさが、目の前の彼女にはあった。
(本当に彼女はあのリリアンナ嬢と血縁なのだろうか……)
無邪気だけれど一本筋が通っていて、弱々しく見えるのに他者へ迷惑をかけることはしない分別を持った女性。それがセレノから見たリリアンナ・オブ・ウールウォードだった。
妖艶な色香のなかに、幼さが混ざる。リリアンナならば、今目の前にいるダフネのように、色仕掛けで異性を思い通りにしようとしたりはしないだろう。
(アレクト殿下の言うとおり……僕だって余計な「尾」は踏みたくない……)
セレノが迷った、その一拍の隙だった。
ダフネが、ぐっと身を寄せ――、セレノの胸へ倒れ込むように抱きついた。
ダフネ自身によって、ボタンを引きむしるようにして再度開かれた夜着の胸元が顕になる。
「お願いです……セレン様……っ」
涙に濡れた声で、懸命に縋りついてくる。
セレノはダフネを振り払おうと手を伸ばし、自分に迫る彼女をグッと引き離した。――その瞬間だった。
ガチャッ。
乱暴に扉の鍵が回る気配がして、
「セレン卿、失礼する!」
ウィリアムの鋭い声が響いた。
(……しまった!)
セレノが咄嗟に身を捻った時にはもう遅く――、ウィリアムの視界に飛び込んだのは、ベッドの上で〝絡み合っているように見える〟二人の姿だった。
セレノの手はダフネの肩を押し返そうとしている最中で、ダフネは胸元を半ば露わにして涙を浮かべている。
その構図は――言い訳の余地がないほど〝決定的〟だった。
加えて、外の衛兵の様子が明らかにおかしいことも、セレノが自らの意思でダフネを誘い込んだように見える構図へ拍車をかける。
ウィリアムの金色の瞳がぎらりと細まる。
「……セレン〝卿〟。――これは、一体どういう状況ですか?」
ウイリアムが問うたと同時、ダフネがワッと泣いてその場へ伏せる。
「セレン様を責めないで下さい、旦那様! リリアンナお姉さまの代わりに、と請われて……彼からの誘いを断れなかった私も悪いんです!」
その声に、部屋の空気が、一瞬で張りつめる。
「ダフネ嬢!?」
セレンの困惑した声が部屋に響く。
ダフネは布団に伏し、顔を隠したまま、ニヤリとほくそ笑んだ。
(これで……逃げられないわよ、セレン様)
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