「おはようございます。一華さん」
「可憐ちゃんおはよう」
週明け月曜日の朝。
可憐ちゃんは今日も元気。
一方私は、疲れがとれていない。
「大丈夫ですか?」
「うん」
と言ったものの、正直疲れている。
上半期の決算シーズンを迎え売り上げはプレッシャーになるし、ノルマもドンドン厳しくなり、本気で逃出したい。
「鈴木チーフ、高田課長知りませんか?」
始業時になっても現れない高田を、小熊くんが探している。
「午前中に取引先へ一緒に行く予定だったんですが」
「ふーん」
何か知りませんかと私を見る小熊くん。
「知らないわよ。そんなに心配なら電話してみたら?」
「えー」
不満そうな声。
「何よ?」
「課長、電話の声が怖いんですよ」
怖い?高田が?そんなバカな。
「小熊くん、誰の話をしてるの?」
あの温厚な高田が怖いなんて。人違いしてない?
「チーフは知らないんですよ。部長はすぐに怒鳴って怒るけれど、課長は静かに怒るんです。もちろん怒られるだけのことをするのは俺なんですけれど。無表情になって、『いいから、黙ってやれ』って言われたら絶対に逆らえません」
「へー」
部下から見る高田は意外と鬼上司なのね。
「それは小熊が悪いからでしょう?」
可憐ちゃんも意外だなって顔をしてる。
「一華さんは課長が怒ったところ見たことありますか?」
「えっ」
高田が怒ったところかあ。
なくはないけれど・・・
「一華さんと課長ってとっても仲良しですものね。喧嘩とかしなさそう」
「そんなことないよ」
高田はいつも上から目線で私に説教するし、最近はバカだバカだと口癖のように言われている。
***
「ねえチーフ、本当に時間がヤバいんですけれど、課長から連絡とか入ってないですよね?」
「うん、知らない。本当に会社集合だった?現地で待ってたりしないよねえ?」
「そんなあ・・・」
スマホを出して、スケジュールの確認をする小熊くん。
「やっぱり会社から2人で向かう予定でした」
「じゃあ、電話してみなさいよ」
こうしていても始まらないじゃない。
「えーっ」
小熊くんが渋っている。
よっぽど高田は厳しいらしいわね。
まあ、この子にはそのくらいでちょうどいいのかも。
その時、
ブブブ。
小熊くんの携帯が鳴った。
「はい小熊です。ああ、課長。はい、・・・はい。え?」
驚いた声を上げ、私を見ている。
何?どうしたの?
「わかりました」
そう言うと、スーッと、私に携帯を差し出す。
「何?」
「課長が変って欲しいそうです」
「私に?」
「はい」
小熊くんは頷いて見せた。
「もしもし、鈴木です」
『悪いが小熊の外回りに同行してもらえるか?』
「はあ?私が?」
『ああ』
何か変だ。らしくない。
「理由は?」
『・・・体調が良くない』
「はあ?」
嘘でしょう。あの高田が体調不良を理由に仕事に穴を空けるなんて。
「どうしたのよ」
『大丈夫だ、心配するな』
「大丈夫なわけないでしょうがっ」
つい大きな声を上げた。
『うるさいなあ、静かにしろ』
不機嫌そうな声で言い、後は一方的に今日の段取りを説明し始める。
きっと、これ以上聞いても高田は話さないだろう。
私は諦めて、今日のスケジュールの修正を練った。
***
自分の予定していた仕事の動かせる部分はすべて動かし、高田の代わりに数件の事務処理もし、午前中のうちに2件の取引先回りに同伴した。
「チーフ、助かりました。午後からは1人で行けると思いますので、チーフは自分の仕事をしてください」
「うん」
確かに、重要なところは午前中に回ったから、午後は定期の訪問のみ。
これなら小熊くん1人でも行けるだろう。
「今日はありがとうございました。お礼にお昼をおごります」
「えーいいよ、悪いし。それに一件回りたいところもあるから」
「いいんですか?近くにうまい定食屋があるんですけれど」
「本当にいいの。気にしないで」
それに、私も一応上司だし、ご馳走になるのは気が引ける。
「俺、いっつも高田課長にご馳走になってるんで、たまには俺が払いますよ。今日は本当にお世話になりましたし」
なんだか、小熊くんが大人に見える。
でも
「高田って、そんなにおごってくれるの?」
「ええ。ただ、大抵は外回りのだめ出しをされて落ち込んでる俺に『ほら、おごってやるから次行くぞ』って伝票持って出て行くんですけれどね」
高田らしいな。
「課長に言わせると、餌付けだそうです」
「餌付け?」
「はい。言ってもわからない俺は食べ物で釣るしかないって言ってました」
「ふーん」
私も近いものがあるかも。よくおごられている。
「じゃあ、俺はこのまま取引先を回りますけれど?」
「私も一件回ってから戻るわ」
「そうですか。じゃあ」
「うん、小熊くん頑張ってよ」
私は右手を上げて小熊くんを見送った。
***
ピンポーン。
足を運んだのは、都心の高層マンション。
普通のサラリーマンでは住めるはずもないところ。
私は昼休みを犠牲にしてここの住人に会いに来た。
ピンポーン。ピンポーン。
何度か鳴らして、
「はい」
不機嫌そうな声がやっと聞こえてきた。
「鈴木です」
「何だ?」
「何だって、お見舞いよ」
何なの。どうして高田が不機嫌なわけ?
「大丈夫だと言ったはずだが?」
「いいから開けて。見舞いに来た同僚をこのまま帰すって、ないでしょう?」
カチャ。
音がしてやっとエントランスの中に入ることができた。
エレベーターで向かうのは45階。
すでに2度ほど来ているとは言え、酔いつぶれていたり、体調不良だったりでまともな記憶がない。
「それにしても高そうなマンションね」
ガチャッ。
「どうぞ」と声がして、
「お邪魔します」
私は勝手に上がらせてもらった。
声はすれど、一向に高田の姿は見えない。
玄関に出ることもできないほど具合が悪いって事?
不安だな。
「こんにちは」
恐る恐るリビングに入ると、
「悪い、横にならせてもらうから」
ソファーに倒れ込んだ高田が目に入った。
「どうしたの?そんなに悪いの?」
「大丈夫だ」
ちっともそうは聞こえない。
「風邪なの?熱は?薬は飲んだ?」
こんなときはプリンやゼリーなど喉ごしの良いものと、スポーツ飲料、後はリンゴと、レトルトのおかゆ。もちろん冷却シートも買ってきた。
***
「ほら、食べられそうなものがあれば言って」
テーブルの上に並べて見せる。
「今はいい」
高田はソファーに寝転んだまま目だけ開いた。
「ダメだよ。熱は?」
「ない」
「嘘、計ってないでしょう?」
高田のことだから、薬も飲んでない気がする。
「ねえ、薬は飲んだの?」
一向に反応しない高田に、つい声が大きくなった。
「うるさいなあ」
「はあ?」
うるさいって何よ。私は心配しているのに。
「なあ」
ん?
「風邪じゃないぞ」
「へ?」
「そもそも病気ではない」
はあ?
「じゃあ何よ」
「それは・・・」
一瞬ためらったように黙った後
「足が、痛いんだ」
ボソッと呟いた。
足?思わず目が行った。
短パンTシャツ姿の高田。
確かに、右足の膝から下が腫れている。それに・・・すごく大きな傷跡。
「それって・・・」
「聞くな」
拒絶された。
気にはなる。けれど、話たくないなら聞こうとは思わない。
でもね、高田が動けなくなるほど辛いってよっぽどのこと。
この状況を何とかしなくちゃと、私も考えを巡らせた。
「足、冷やす?氷持ってこようか?」
「・・・ああ」
目を閉じたまま返事だけが返ってきた。
***
「触るよ」
「ああ」
冷凍庫に入っていた氷枕を、薄いタオルにくるんでから右足にあてがった。
「ん?」
何をしているんだと高田が目を開けた。
「大丈夫?冷た過ぎた?」
「いや、でも、それって頭に使うものだろう?」
「そうだけど、いいじゃない。役に立って本望だって氷枕も言っているわ」
「んな訳あるか」
少しだけ口元を緩ませた高田に、なぜだかホッとした。
大きめのタオルで氷枕と足を固定し、私は自分用に買ってきたサンドイッチとおにぎりをテーブルに広げた。
「どうせ食べてないんでしょう?少しでも食べないと。病気じゃないんだからおかゆの必要ないわよね?」
どれ食べる?と両手に持ってみせると、だるそうにサンドイッチを指さした。
「ペットボトルのお茶を買ってきたけれど、それでいい?コーヒー入れようか?」
「いいよ。それより・・・」
ん?
何か言いたそうな顔。
「何?」
「あの・・・」
「何よ、どうしたの?」
「・・・トイレに行きたいんだ。悪いけれど、廊下まで肩を貸してくれないか?」
トイレって・・・。
つい、顔が赤くなってしまった。
「すまない」
申し訳なさそうにうつむく。
「バカ、何言ってるのよ。ほら、手を貸すから。立てる?」
「ああ」
体を動かすたびに顔をゆがめ、苦しそうにする高田。
私は腕をとり体を支えた。
「大丈夫?ゆっくりでいいから」
「ああ。うぅっ」
時々、うめくような声が聞こえる。
高田はどうしたんだろう。これはただ事ではない。
「ありがとう、ここでいい。後は1人で行けるから」
廊下に出たところで、手を離された。
「でも・・・」
1度とは言え、体を重ねてしまった私達。
今さら遠慮なんてないと思うけれど、口には出せない。
***
再びリビングのソファーまで肩を貸し、私達はやっと向き合って座った。
「どうしたの?いつから痛むの?」
週末までは普通にしていたはずだけど。
「昨日の接待ゴルフで歩きすぎた」
はあ?
それって、あまりにも運動不足。
でも、待って。
この傷。これはかなり以前のもの。
そういえば、高田はスポーツをしない。
会社のイベントで、サッカーや、登山、サイクリング。何度誘っても断っていたっけ。
それに、普段から2フロア以上の移動には階段は使わない。
どんなに混んでいても、エレベーターを使う。
もしかして、この傷のせいなの?
「病院には行ったの?」
「イヤ」
「行かなくちゃ」
「ああ」
言いながら、またごろんとソファーに横になった。
「私でよかったら、一緒に行こうか?」
「・・・」
「ちゃんと病院に行かなくちゃ、この調子じゃ明日仕事に行けるかわからないわよ?」
「ああ」
返事にも元気がない。
「高田ッ」
らしくなく、ウダウダとしている高田に声を荒げてしまった。
「わかった。・・・タクシーを呼んでくれ。その電話でフロントにかければ呼んでくれるから。すまないが、また肩を貸してくれるか?」
「当たり前じゃない。それに、タクシーなんていらないわ。高田の車を私が運転するから」
「いや・・それは・・・」
「何?私の運転が信用できないって言うつもり?」
「そんなことは・・・」
「いいから、保険証と鍵。さすがに短パンでは行けないから、着替えは?」
てきぱきと準備をし、ジーンズに履き替えた高田を支えながら、私達はマンションを出た。
***
「ここでいいの?」
「ああ」
やって来たのは車で20分ほど走った場所。
3階立ての建物に、『三鷹整形外科』と書かれていた。
「そこを曲がると時間外の入り口があるから、そっちにつけて」
「ああ、うん」
車の中から何度か電話を入れていた高田。
車が時間外入り口に着くと車いすを持った男性が待っていた。
「久しぶりだな、鷹文くん」
「ええ。ご無沙汰してます」
男性の手伝いで車いすに移りながら、親しげに挨拶を交わしている。
「あの・・・」
「ああ、僕は彼の主治医で三鷹信吾と言います」
「はあ」
三鷹整形外科の三鷹信吾さんは、50代後半くらいに見えるおじさま。
チラッと見えた名札には、『医院長 三鷹信吾』と書いてある。
「鈴木ありがとう。もういいよ」
「もういいって、どうやって帰る気なのよ。私は待ってるから」
「いいから。お前も仕事があるだろう?俺はなんとかするから帰れ」
「いいよ。急ぎの仕事はかたづけてきたし」
「しかし・・・」
「いいから行ってきて」
高田を送り出し、私は待合の休憩スペースでパソコンを広げ伝票や書類の作成を片付けた。
それから1時間ほどし診察室から出てきた高田は、自分の足で歩いていた。
「大丈夫なの?」
「ああ、骨に異常はなかった」
「そう」
良かった。
「鷹文くん。強い薬で痛みは抑えているけれど、油断するんじゃないぞ。1週間はできるだけ歩かないこと。痛み止めは一日3回まで。いいね?」
「はい」
思わず私が返事をしてしまい、三鷹先生に笑われた。
***
高田が車を運転するというのを必死でとめ、帰ってきたマンション。
玄関で帰そうとする高田を無視して、私は部屋に上がり込んだ。
「もういいから帰れよ」
「今日、泊ってもいい?」
「帰れ」
「大丈夫、私ソファーでいいから」
「はああ?」
一向にかみ合わない会話。
でも、私も譲る気はない。
「とりあえず、今日は会社には帰らないことにするから。あとは・・・明日からの予定を立てなくちゃね」
「おまえなあ」
「仕方ないでしょう、高田は1週間内勤になるんだから。その間の外回りは私と小熊くんでフォローするわよ。その代わり、伝表や事務処理は全部お願いね。まずは、夕飯の買い物をしてくるから。何か食べたいものある?」
「いや」
「じゃあ、行ってくるわ」
確かマンションの側に小さなスーパーがあったのを思い出し財布を手に立ち上がった。
私が作れるものなんてたかがしれているけれど、少しでも食べて元気になってもらわないと。
「なあ?」
不意に後ろから声がかかった。
「ん?」
「お前、家には『友達の家に泊る』って言うつもり?」
「それは・・・」
「夕食は一緒に食べるから、泊らずに帰ってくれ」
「迷惑だった?」
私は心配で、高田を1人にはできないのに。
「俺は大丈夫だから」
「でも・・・」
泣きそうな顔を見られないように顔を背けた私を、後ろからギュッと高田が抱きしめた。
「いい子だから、言うことを聞いてくれ」
「高田?」
くるりと向きを変えられ、目の前に高田の顔があった。
***
「お前、俺を試してる?」
「えっ、そんなこと」
ないよ。と言いかけた唇を塞がれた。
何で?
どうしてこんな事をするんだろう。
好きでも何でもないはずなのに。
唇の隙間から高田が入ってくると、私はもう何もできなくなった。
やめて・・・でも、やめないで・・・お願い。
しつこくて情熱的なその動きは、欲情さえ感じる。
でも、目の前にいるのは同僚高田鷹文。
それ以上でも、以下でもない。
「俺はこれ以上の忍耐力はない。お前が泊っていくなら、きっと手を出すと思う。それでもいいか?」
「・・・」
「もちろん、いい加減な気持ちで関係を持つつもりはない。まあ、1度は弾みでやってしまったけれど」
「もう、そのことは」
言わないでを高田を見た。
「お前に、それだけの覚悟があるのか?それが聞きたい」
まるで会社で説教されているみたい。
とても男女の会話とは思えない。
高田は私のことを知らないはずなのに。
「それとも、本気で俺のものになってみるか?」
「・・・高田」
今、目の前にいる男は誰だろう。
私の知っている同僚とは違う。
これ以上はダメ。私の本能がそう言った。
彼を私の人生に巻き込むわけにはいかない。
「ごめん、夕食を食べたら帰る」
「ああ、出前を取ろう。寿司でもウナギでも何でもいいぞ」
「うん」
結局ウナギの特上をご馳走になり、明日の朝は私の車で迎えに来るからと約束をして、マンションを後にした。