テラーノベル
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「いきなり知らない男と結婚とか、無理だから!」
「知らない男?」
「今のあんたは、ほぼ知らない男でしょ」
「……ひどいな」
(何、その拗ねた顔!)
どんな表情をしても、無駄に絵になる。
「ていうか、何で契約結婚なんて大それたものが必要なのよ?」
「神代家の事情だ」
「神代家?」
「ああ」
慧は脚を組み替え、ソファへ深く座り直す。
「俺の会社は、神代グループから出資を受けてる」
「……へえ」
「一年後には、向こうが保有する株を買い戻して、完全に独立する予定だ」
「それまでは逆らえないってこと?」
「完全には無視できない」
「それまでに、俺の縁談をまとめるつもりらしい」
「……つまり、政略結婚?」
「そんなところだ」
「うわ……」
思わず顔をしかめる。
「ねえ。今、令和よ?」
「神代の古臭い狐どもには関係ないらしい」
「怖っ」
「同感だ」
そこだけは気が合った。私は、テーブルの上の書類へ視線を落とす。
「その縁談を壊すために、先に誰かと結婚しておきたいってこと?」
「そうだ」
「誰でもいいの?」
「よくない」
「条件は?」
「神代家に呑まれないタフさ。誰を相手にしても懐へ入れる対応力」
昼は法人営業。夜はラウンジ。面倒な相手への対応なら、嫌というほど経験してきたけれど。
「他にもいるでしょ? もっと育ちがよくて、神代家に似合いそうな――」
「いない」
即答だった。
「少なくとも、俺に近づいてくる女は、神代の名前か金に興味があるだけだ」
「……顔は?」
「それもだ」
(自覚イケメン、一番タチ悪いわ……)
「……だからって、私?」
「最初から、お前しかいない」
その言い方は、ずるい。まるで、私じゃなきゃ駄目みたいに聞こえる。
(違う違う。契約相手として都合がいいって意味でしょ)
「……で。契約内容は?」
「やっと読む気になったか」
「確認するだけよ!」
契約書を手に取った。ここからは、仕事モードだ。
「本当に籍も入れるの?」
「ああ」
「そこはガチなのね」
「形だけじゃ、神代の狐どもは騙せない」
「同居は?」
「必要だ」
「……同居!?」
思わず声が裏返った。
「別居していたら、すぐに疑われる」
「いや、それは分かるけど!」
「寝室は別だ」
「当たり前でしょ!」
「何を想像した」
「してない!」
くっ。昔は、こっちがからかう側だったのに。
(会わない間に何があったのよ、本当に!)
「家事は?」
「週に二、三回、家事代行が来る」
「……じゃあ、妻の仕事って何?」
「必要な時に、俺の妻として振る舞う」
「具体的には?」
「神代家の集まり。仕事関係の会食。公的な行事。多くて月に二、三回だ」
「私の昼職は?」
「続けて構わない」
「夜職は?」
今度は、慧が黙った。
「……何、その間」
「契約期間中は休んでほしい」
「やっぱり」
「神代家は、そういう隙を突く。休業による収入減は、別途補償する」
「……ふーん」
理由としては、分からなくもない。ページをめくる。
「同居中の生活費は?」
「俺が持つ」
「妻役に必要な服や美容代、交通費は?」
「すべて別だ」
「……ずいぶん太っ腹ね」
「お前に損をさせる契約では意味がない」
「……」
今、さらっと思わせぶりなこと言わなかった?
(気のせいよ。契約するメリットを強調しただけ)
(勝手に意味を足すな、私)
「支払いの時期は?」
「契約成立時に半額。残りは契約満了時だ」
契約成立時に500万円。それだけでも、十分すぎる。
「途中解約は?」
「条件次第だ」
「違約金は?」
「双方に設定してある」
「仕事に影響が出た場合は?」
「責任を持つ」
「そこ、曖昧」
人差し指を立てる。
「“責任を持つ”は、契約書で一番揉めるやつよ」
「細かいな」
「トラブルの種は、先に潰すのが鉄則なの」
「……損失分を金銭で補償する」
「よし」
契約期間、報酬、守秘義務、違約金、業務への影響、私生活への不干渉。契約書の確認項目が多すぎる。
いや、待って。そもそも、婚姻届を前に契約書を精査している状況がおかしい。ページをめくる指が止まる。
私自身の奨学金。弟の予備校代。大学の入学金。授業料。その先の将来。
しかも、生活費もラウンジの休業補償も別。条件だけを見れば、破格だ。
(……いやいやいや!)
(落ち着け!)
だからこそ、飛びつくな。金額が大きい時ほど、まず疑え。
契約書をトントンとテーブルの上で揃え、そのままバッグへ入れた。
「返事は?」
「全部ちゃんと読んでから」
「1000万だぞ」
「読まずにサインするほど、世間知らずじゃないのよ」
「……」
「何よ」
慧が、ふっと息を漏らした。
「お前らしいと思って」
「その顔やめて」
「失礼だな」
「契約書、持ち帰るから」
「分かった」
あっさり返され、逆に拍子抜けする。慧は、またあの腹立つほど余裕のある顔をした。
「どうせ、すぐまた会う」
「……は?」
***
翌日の昼休み。私はデスクで、銀行アプリを開いていた。
送金先――橘朔。離れて暮らす、高校生の弟だ。金額を入力し、送金ボタンを押す。数分後、スマホが震えた。
朔《姉ちゃん。今月、こんなにいらないよ》
片手にコンビニのサンドイッチを持ったまま、返信する。
玲奈《いるでしょ》
朔《予備校の科目減らすから》
玲奈《減らさなくていい。受けたい科目、全部受けなさい》
朔《でも、姉ちゃんの奨学金もあるだろ》
指が、ぴたりと止まる。画面の上には、別の通知。『奨学金返済 口座振替予定のお知らせ』まったく。余計なところばかり鋭い。
玲奈《大丈夫!!》
送信して、スマホを伏せた。
「……大丈夫、ね」
心配しないで。気にしないで。私は平気。――「大丈夫」は、一番得意な嘘だった。
(1000万円、か……)
(いや、だからって契約結婚はないでしょ!)
「橘先輩、お疲れ様です。聞きました?」
隣の席の後輩、森下結衣が、目を輝かせながら近づいてきた。
「何を?」
「今日の全社会議ですよ! 例の共同プロジェクトの相手先の社長さんが、直々に来るらしいんです!」
「ああ、ナイトリカバリーブランドの件ね」
「その社長さん、超絶イケメンらしいですよ!」
「はいはい。仕事しなさい」
「してますよぉ。第一印象を把握するのも、立派な営業活動です!」
「ただの顔面情報でしょ」
「顔は第一印象を左右する最重要項目です!」
営業部のあちこちでも、社員たちが小声で噂していた。
「RESTIAとの業務提携、本当だったんだ」
「社長、まだ25歳らしいよ」
「しかも、めちゃくちゃイケメンって噂」
(RESTIA……?)
どこかで聞いたような気もするけれど、思い出せない。
うちの会社は、化粧品や生活雑貨を扱うメーカーだ。コスメやバス用品、ホテルアメニティを扱い、最近は睡眠や休息をテーマにしたリカバリー用品にも力を入れている。
今回の提携先は、健康管理デバイスの開発まで手がけるウェルネス企業、RESTIA株式会社。新しいナイトリカバリーブランドの立ち上げには、営業部も関わることになっていた。
「そろそろ時間です! いよいよですよ!」
森下に急かされ、私は資料を手に立ち上がった。
「イケメンだか何だか知らないけど、ちゃんと説明を聞くのよ」
「分かってますって」
絶対に分かっていない顔で、森下がにやにや笑う。資料を手に、大会議室へ向かった。
前方のスクリーンには、大きく文字が映し出されていた。――RESTIA株式会社との共同ブランド開発について。
「本日付で、弊社は休息・睡眠領域を中心に事業を展開するウェルネス企業、RESTIA株式会社と業務提携を結ぶこととなりました」
社長の説明が始まり、会議室が静まり返った。
「本日は、共同開発の統括責任者として、RESTIA株式会社代表取締役社長、神代慧様にお越しいただいております」
「……え?」
会議室の後方の扉が開いた。濃紺のスーツ。持て余すほど長い脚。昨夜と同じ、腹が立つほど整った顔。現れた男を見た途端、私は呼吸を忘れた。
(……は?)
(何で、あいつがここにいるのよ!?)
皆の視線を浴びながら、慧は迷いなく前へ進んでいく。マイクの前に立つと、落ち着いた声で名乗った。
「RESTIA株式会社代表取締役、神代慧です」
(嘘でしょ!?)
(あいつが……取引先の社長!?)
コメント
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うわっ、まさかの展開!最後の最後で“取引先の社長=慧”ってオチが来るとは思わなくて、思わず声出ました(笑) 契約書を冷静に精査する玲奈のプロっぽさと、「その顔やめて」ってツッコむ距離感が絶妙で、二人の空気感にじわじわ惹かれます。慧の「どうせすぐまた会う」がただのイケメン発言じゃなかったのが痛快でした!