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『ないこです。これからよろしくお願いします!』
ぺこりと頭を下げると、控えめな笑顔がこぼれる。
その瞬間、会議室に温かい拍手が広がった。
⸺これは、すぐ人気者になるな。
そう思った矢先、上司の声が響いた。
「教育係はいふ、頼むぞ」
不意に指名され、俺は小さく息を吐く。
思わぬ役回りに、そして目の前の新人の笑顔に、胸の奥が微かにざわめいた。
面倒ではあるが、仕事だから仕方ない。そう割り切ろうとした、横に立つ新人。ないこが、ぱっと顔を上げて笑った。
『いふさん、これから色々教えてくださいね!』
笑顔に悪気のかけらもなく、真っ直ぐな光があった。
その眩しさに一瞬だけ目を細める。…やっぱりこいつ、すぐ人気が出る。
午前の業務が終わり、昼休み。
新人に声をかけられる前に席を立とうとしたが、案の定、ないこが追ってきた。
『あの、いふさん、一緒に食べてもいいですか?』
「…ええよ」
そう答えると、隣に腰を下ろす。
弁当箱を開いたないこが嬉しそうに箸をとった。
『俺、いつも自分でお弁当作っているんです。』
「…そうか」
『いふさんは、作らないんですか?お弁当とか』
「自炊はできんからな….」
『なんか、わかるかもw』
「コンビニ弁当も美味しいもんやで」
笑顔を真正面から見るたびに、胸の奥がざわつく。
⸺ケーキなんてどうでもいい、そう思って生きてきた。
なのに今、この目の前のケーキを“食べたい”と、初めて思ってしまった。
俺は弁当を見下ろし、無言で箸を動かした。
けれど味はしない。
甘さに満たされるのは、隣で笑うないこだけだった。
『いふさん、』
「ん?..」
『今度、俺が作ったお弁当…食べてくださいよ。』
不意の言葉に、箸を持つ手が止まった。
横を見ると、本気とも冗談ともつかない笑みを浮かべている。
『いや、別に大したものは作れないですけど。練習中なので、いふさんに味見してくれたら嬉しいなって』
…何を言って
ケーキがフォークに「食べて」と差し出すなんて。
それはあまりに無防備で、危うい。
「…やめといたほうがええよ」
『え?』
「俺にそんなこと、しなくてええから」
低く言い放った声に、ないこは目を丸くした。
けれど次の瞬間、またふわりと笑う。
『…じゃあ、もうちょっと上手く作れるようになったら。楽しみにしててくださいね』
夜。
狭いワンルームの部屋で、買ってきた缶ビールを開けた。
昼間の出来事を思い返すたびに、胸の奥が落ち着かない。
「…俺に弁当を作る、」
独り言が漏れる。
今までケーキに興味などなかった。目に入っても、ただの対象。
甘さなんて一度も感じたことはない。
それなのに、あいつの笑顔は⸺
見ただけで胸の奥を満たすようで、息苦しいほどに甘かった。
「食べたい、か……」
口に出した瞬間、自分自身に驚いた。
その言葉は、この何十年も縁がなかったはず
だが、嘘ではなかった。
箸を握るないこの手。
弁当を差し出す仕草。
「味見してほしい」と笑った無邪気な顔。
思い出すだけで、喉が渇く。
俺はビールを一気に飲み干した。
苦味が、あの甘さを誤魔化してくれるはずだった。
けれど、何も消えなかった。
朝。
オフィスに足を踏み入れると、昼休みに見た笑顔が、頭の片隅にまだ残っていた。
あの無邪気な顔、箸先でつまむ姿、弁当の香りまで思い出すと、胸の奥がざわつく。
『おはようございます、いふさん!』
振り向くと、ないこが元気に挨拶してきた。
⸺まぶしい。
軽く頷くだけで返す。
普段ならこれで十分なのに、今日は心が勝手に早鐘を打つ。
『今日はお弁当作ってきました?』
「作っとらん、」
けれど、ないこの小さな肩の揺れや笑顔を見るだけで、再び胸がざわめく。
どうしようもない。
俺は、こいつを“食べたい”と思ってしまったのだ。
昼休み、ないこがまた隣に座る。
無言を装いながらも、目は自然とないこの動きに引き寄せられる。
箸先、笑顔、言葉のひとつひとつ。
すべてが、胸に甘く絡みつき、理性を揺さぶる。
「…なんや、これ」
『あ、俺これから会議だった。』
『また明日一緒に食べましょうね、』
そう言い残してないこは消えていった。