谷底を見た。
谷底から、ひゅうぅ……と音を立てて、風が吹いているのが聞える。真っ暗だ。下を見ても、暗くて何も見えやしない。石を落としてみても、石が谷底に着くまでに消えてしまったように、音は何もしないのだ。
奈落、落下、転落、堕落。
色んな言葉が、頭の中をよぎっては消える。落ちたら最後、這い上がってこれないだろう。
「エトワール」
「何、ら……ヴィ」
「もう、そんな言いにくいなら、本名教えてよ。ヴィじゃないことぐらい分かってるし」
「それは、聞いたから……はあ、本名の方が良いの?」
次の日、ダズリング伯爵家は準備をするから、少し待っていて欲しいと言われ、明後日に訪れることになった。だから、今は暇して、話し掛けてきたラヴァインの話を聞いている。何でここが分かったのか、聞きたいぐらい、彼は私が行く先々に現われる。
今私がいるのは、グランツが眠っている部屋だ。
死んだように眠っている彼は、まだ目を覚まさない。少しばかりの罪悪感で、ここに来てみて、起きてくれと祈るが、全くその祈りは通じていないようだった。早く起きろ、バカって何度言ったことか。
それを見て、ラヴァインは興味なさげに、ふーんと言うばかりだった。
「うん、まあそりゃ、本名の方が嬉しいかも」
「あんたでもそんなこと思うんだ」
「だから、俺の事なんだと思ってるの」
何って、最低嘘つき男。
そう口が裂けそうになって、私は言葉を飲み込んだ。
確かに、本名ぐらい教えてあげても良いかもしれない。さすがに意地悪しすぎたかと思ってしまう。私は、はあ……とため息をついた後、ラヴァインを見る。彼は、早く早くと言わんばかりに私を見ている。そんなに、本名が知りたいのか。本名を知ったところで、思い出すことがあるのかどうか。
まあ、どうでも良いけれど。
「いいわよ。教えてあげる」
「やった」
「子供みたいに喜ぶのね……あ」
「あって、何。口に出ちゃってたとか、そういうこと?」
そういう所は鋭いな、嫌な奴。と思いながら、私は、ラヴァインを見る。純粋な子供みたいな瞳。濁っていなかったら、それはもう満月のように美しい瞳だから、此奴がしてきたことを忘れるぐらいには、綺麗だと思えた。此奴じたい、綺麗かと言われれば全く頷けないんだけど。
「アンタの本当の名前……というか、まあ本名は、ラヴァイン・レイ」
「ラヴァイン・レイ……レイ公爵家か」
「知ってるの?」
「そりゃ勿論。公爵という爵位なんてそうそう貰えないし。あれでしょ、ブリリアント侯爵と肩を並べる、ラスター帝国の二大魔法の家門って呼ばれてる」
其れは知らなかった。けれど、何もなかったように、そうだったね。と返してやれば、ラヴァインは「知らなかったでしょ」と悪戯っ子のように笑った。腹が立つ。
けれど、名前を教えたところで、彼は別にその名前に興味が無いようだった。
「何、何も思い出せない?」
「そりゃ、名前聞いただけじゃあね。それに、この名前って、谷って意味あるじゃん」
「それは、初耳。自分の名前とかそこまで考えたことなかった」
エトワールは星って意味らしいけど、皆が言うから、そういう物だって認識してる。でも、トワイライトも星って言う意味らしいから……
意図的に付けられたんだろうな、と制作陣のことを考えながら、私はラヴァインの名前の意味を知って、だから何だと思った。
(でもまあ、息子に谷って何だか、あまり言いようには思えないかも)
谷と聞いて、奈落とか渓谷とかそういうそこの見えない深いものを想像してしまった。怖い、という感情もある。だから、あまり良い意味に捉えられない。それを、ラヴァイン自体も思っているようで、笑ってはいるものの心は凪いでいるみたいな顔している。
「で、俺のお兄さんの名前は?」
「聞いてどうするの」
「俺の名前が谷だから」
「だから?」
「……深い意味は無いけどね。気になるじゃん」
と、はぐらかすラヴァイン。自分よりもいい名前だったらどうしようとか、考えているのだろうか。自分は親に愛されていないとか……
(そうだったら、そうだったら……私も分からないでもないけれど)
私は理由があって親に愛されなかったわけだけど、ラヴァインはそうじゃないだろう。大体は、権力のある、兄弟では上の方、優秀な方が家を継ぐだろうし、ラヴァインよりもアルベドの方が重宝されていたのかも知れないと思うと、ラヴァインの劣等感は凄いことになっていたんじゃないかと。
「聞きたいの?」
「その言い方、教えてくれないんじゃないかなあって」
「良いわよ。聞きたいなら教えてあげる」
「おっ、いつものエトワールと違う」
と、ラヴァインは言う。此奴の目には、いつも私という存在はどんな風に映っているのかと気になるところである。
でも、いつもと違うって言われればそうかも知れない。アルベドの事になると、そりゃ、少し掻き乱されるというか。
「エトワールにとって、俺の兄さんって大切なんだよね」
「……」
「嫉妬しちゃうなあ。奪いたくなっちゃうなあ。だからかな、ほら、きっと俺がエトワールに一目惚れしてこんなに惚れ込んでるって……兄さんも一緒なんじゃないかなとか思っちゃう」
「アンタの発言から、私に惚れてるって思えないのよ」
「心外」
「日頃の行いのせいね」
そう返してやれば、ラヴァインは「じゃあ、よくするかも」と言っていたが、此奴が改心することは無いだろうと思う。日頃の行いが物を言う世界なんだ。というか、それってどの世界でも共通だと思ってる。悪いことをし続けて、改心しても、それまでの評価があるから、一気に変わることはないだろうって言うそういう。
「で、兄さんの名前教えてくれないの」
「教えたら、思い出す?」
「俺をここから追い出したいの?」
と、ラヴァインは少し悲しそうに言った。別に追い出したいわけじゃないけれど、元の場所に返した言って言う気持ちはあった。きっと、私と一緒にいても、彼が良い方向に進むとは限らない。ううん、救うとか言ったけど、依存させたいわけじゃないし、いつも彼はふらりと現われて、ふらりと消える。それがラヴァインだと思っているから。
まあ、出ていったら出ていったで悲しくはなるかもだけど。
私は、考えた結果、アルベドの名前を口にすることにする。今、何処にいて、何をしているか分からない彼のこと。
「アルベド。アルベド・レイって言うの、アンタの兄の名前」
「アルベド……アルベドね」
「何?」
「いい名前だなって思って。何か、ずるい」
そう、ラヴァインは言った。それは、本心のようで、それでも兄の名前を聞けたのが嬉しかったのか少し口角が上がっている。馬鹿にするとかそう言うんじゃなくて、尊敬するみたいな。よくわからないけど。
「はい、また質問なんだけど」
「質問って……何でも答えてあげられるわけじゃないんだけど」
「俺の兄さんのアルベドって、アルとかいう呼び方してた?ああ、エトワールがね」
話を聞いていない。そう思いつつも、何でそんなことを聞くのかと思った。私が、ヴィとか言いだしたからだろうか。
「ううん、アルベドの事アルとか呼んだことないけど。と言うか、アルベドはアルベドじゃない」
「そう?じゃあ、俺の事はラヴィって呼んで」
「何で」
「そっちの方がよくない?」
と、これまた訳の分からないことを言う。
でも、言わないと、諦めるまで言い続けるぞって言うのがその人身から伺えて、私は仕方なくラヴィと呼ぶことにした。すると、彼は嬉しそうにはにかむ。
「そんなに嬉しいの?」
「うん。だって、多分アルベド兄さんって、俺の事そういう風に呼んでないじゃん?愛称って、親しい人に呼んでもらうから愛称なんだよ」
そう、満面の笑みで言われてしまい、言葉を失った。
ああ、だからヴィって名乗ってたのか、とか色々思うところはあったけど、ラヴィなんて言い慣れない物だから、私は、これからどっちで呼ぶか迷った。
「ラヴァイン」
「ラヴィ」
「ラヴァイン」
「ラヴィだって、エトワール」
こんなやりとりを続けるもんだから、私はラヴィと呼ぶしかなくなった。本当に呼び慣れない。これまで、ラヴァインだったのに。と、呼び方であーだーこーだ言うつもりはなかったけれど。
それでも、ラヴァインが嬉しそうに笑うものだから、仕方ないなって思ってしまうのは、此奴が、所謂弟属性だからって事だろうか。そういうことにしておこう。別に、洗脳されたとかそう言うのではないし。
「エトワール」
「何?」
「俺を拾ってくれたのが、エトワールでよかった」
そう言った彼は、どういった意味でその言葉を口にしたのか、私には分からなかったが、純粋な目で言うので、嘘じゃないなって言うことだけは分かった。
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