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夏休みも終わり、九月半ば。
乙守先生がまさかの全魔協の会長と知った僕たちは、なんとなく乙守先生から距離を置くようになっていた。
特に後ろめたいことがあるわけではないし、乙守先生を怖がったりとかそんなことは一切ない(つもり)なのだけれど、やっぱり思わぬ事実に動揺して、どう接したら良いのか判らなかったというのが一番の要因だろう。
僕も夏休み前まではしょっちゅう保健室に逃げ込んでいたのに、今や真面目に全ての授業を受けるようになっていた。もちろん、目指す進学先を決めたから、ということもあるのだけれども、それにしても無意識に保健室を避けるように廊下を歩くようになってしまったのは、どういうわけだろうか。自分自身にも解らなかった。
そんなわけで、ある日の放課後。
三階から階下の脱靴場へ降りている途中、
「下拂くん」
下から上がってくる乙守先生とばったり出会した時、僕は思わず「ひょっ」と変な声を漏らしてしまった。
「……何よ、今の声は」
「べ、別になんでもないです」
「明らかに油断してましたって感じだったわね」
「いや、まさかこんなところで乙守先生と会うだなんて思わなかったもので……」
「そう? 嬉しかったでしょ、久しぶりに私に会えて」
「アー、ハイ。トテモウレシイデス」
「なんてわざとらしい」
「そう言われましても」
やれやれ、と乙守先生は深い深いため息をひとつ吐いてから、
「それより、楸さんはまだ教室にいる?」
「あぁ――アレですか、真帆の認定試験の件でしょうか」
「違うわよ、アレはまだ先」
「っていうか、もう隠さないんですね」
「もう隠す必要がないもの。バレちゃったんだから」
あ~ぁ、つまんないの~、と乙守先生は両手を上げて大きく伸びをする。
その姿と夏休みに海に行った時のあの水着姿が重なって、僕は思わず反射的に乙守先生から顔を背けながら、
「そ、それで、真帆に何の御用で?」
「最近、あまり保健室に来てくれないから、体調どんな感じかなって」
そう言えば、夏休みの終わりに全魔協に行った時、真帆もそんなことを言っていたような……?
「真帆、体調悪いんですか?」
「それは教えられないわね」
「……なんで?」
「ナイーブなお話だから」
「――あぁ」
なんとなく、想像はついたのだけれども。
「ただまぁ、そのうちあなたにもちゃんと話しておかないとならないことではあるんだけれどね。まだもうちょっと早いかなって」
「僕にも? むむ、気になりますね」
「そうでしょう、気になるでしょう」
乙守先生は、意地悪くニヤリと笑んだ。
ふむ、その笑みはまるで悪い魔女のようだ。
まぁ、実際、魔女なのだけれども。
しかも、齢二百を超える超絶長命な魔女である。
美魔女なんてふざけて言えるレベルではない。
これまで会ってきた魔女、魔法使いの中で一番若さを保っている。
その秘訣は、いったい何なんだろうか。
「ま、覚悟しておくことね」
「……覚悟?」
「そ、覚悟」
僕は思わず眉根を寄せて、
「覚悟が必要なことなんですか?」
「まぁね。覚悟が必要なことだってことだけは覚悟しておいてね」
「なんですか、その回りくどい言い方」
「大事なことだから」
むむむむ。気になる、あぁ気になる、気になる――
「で、楸さんは結局どこにいるか知ってる?」
「真帆ならいの一番に帰っちゃいましたよ」
「あら、そうなの?」
眼を瞬かせて、乙守先生が驚いたように声をあげた。
「もしかしてだけど、私、避けられてる?」
「はい」
「ちょっと、そこははぐらかしてくれてもいいでしょうに!」
口をへの字に曲げる乙守先生――もとい、乙守会長さん。
「だって、乙守先生が全魔協の会長だなんて知っちゃったら、みんな気が引けちゃいますよ」
「なによそれ、今の私は一介の保健室の先生よ?」
「だとしてもですよ、会長であることに代わりはないんでしょ?」
「ひどい! 会長だって解った途端、わたしのことハブっちゃうわけ? ゴールデンウィークとか夏休みとか、色々一緒に行った仲じゃないのよ!」
「そんなこと言われましても。特に真帆なんて、今までのことが全部、今度の認定試験に関わってるんじゃないかって疑っちゃってますから、しかたがないと思いますよ」
「う~ん、そうとられちゃったかぁ」
「ホントのところはどうなんですか?」
「認定試験は関係ないわね。ただまぁ、近からずとも遠からず、ではあるんだけれども」
「……なんすか、それ」
「ひみつ~」
唇の前で人差し指を立ててにんまり笑う魔女のその姿は、あまりにも軽々しくて。
「ま、いいですけど。何か伝えることがあったら、僕から真帆に伝えておきますけど」
「そう? じゃ、明日の放課後、必ず保健室に来るよう伝えておいてね」
「……伝えはしますけど、行くとは限らないことをご理解ください」
「だめよ」
ぴしゃり、と乙守先生ははっきり言って、途端に真面目な表情になる。
僕はその醸し出す雰囲気と周囲の空気が一気に変わったことに驚くと同時に、畏怖してしまった。
ぴんと張り詰めたような、とてもふざけたことの言えそうにない、乙守先生の瞳の強い虹色の光に動揺してしまう。
それを察してか、乙守先生は小さくため息を吐いてから、
「……あなたも一緒で構わないから、必ず保健室まで来るように。理由は身体検査、とでも伝えれば解ってくれると思うわ」
「――わ、わかりました」
「よろしくね☆」
乙守先生は軽く右手を振ると、たったと階段を軽いステップで降りて行った。
僕はそんな乙守先生の背中を、見えなくなるまで見ていることしかできなかった。
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