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第1話 美味そうな匂い
天灯院・人外由来魂支援棟、植物魂日照庭。
朝の光が畝の間に落ちる時間、耕稔は毎日その一角にしゃがみ込む。
「おー、今日もいい葉だな」
灰茶色の実務衣の膝には、もう乾いた土の跡がいくつも重なっている。節くれ立った指が、青々とした葉先に触れる。触れ方はいつも丁寧で、力を入れすぎることがない。
「立派になったなぁ。……美味そうだ」
土の中で、人参がわずかに葉を揺らした。褒められて機嫌がいいときの癖だった。
「また言ってる……」
通りかかった汀生が、穏やかな笑みを浮かべて足を止める。
「その言い方、また澄明殿の耳に入りますよ」
くすり、と笑う声には棘がない。
「褒めてんだよ」
耕稔は振り返りもせずに答えた。本人にとっては最上級の賛辞のつもりである。
*
日照庭の外壁沿い、誰も使わない資材通路。
半獣型の兎が、耳をぴくりと動かして立ち止まった。
甘く、青く、瑞々しい匂い。鼻先に触れた瞬間、腹の奥が疼くのがわかる。息を吸うたびに濃くなる気がして、鼻先を袖で覆ってみたが意味はなかった。
「……駄目だ」
耳が伏せる。
「入るな。見るだけだ」
そう自分に言い聞かせながら、足はすでに日照庭の入口へ向かっている。
畝の奥、他とは違う色艶をした一本があった。葉は濃く、根の先までみずみずしい張りがある。耕稔が毎日通って世話をしてきた分だけ、他のどれとも違う輝きを放っていた。
兎はしゃがみ込み、顔を近づける。
匂いはそこだけ異様に強かった。喉が、ごくりと鳴る。
「なんなんだよ、お前……」
指先が、葉に触れるかどうかのところで一度止まる。触れれば後がないことは分かっていた。分かっていたから、止めた。
人参の葉が、風もないのにふわりと揺れる。まるで応えるように。
「……っ」
止めていたはずの指先が、根の表皮にそっと触れた。ひやりとした感触と、その下から伝わる張りのある重み。
「すっげえ、美味そうだな……」
声が掠れていた。誰かの丹精の結晶であることも、由来魂に手を出してはいけないという規則も、頭では理解していた。理解していたのに、鼻先が、指先が、その理解を置き去りにしていく。
鼻先が葉先に触れるほどの距離まで顔を寄せ、兎は一度だけ強く目を閉じた。
「……一口だけ」
――カリッ。
甘さと瑞々しさが、想像していたよりずっと強く舌の上で弾けた。
「うま……」
声に出しかけた次の瞬間、腹の奥で何かが逆流するような感覚が走った。
*
音は小さかったが、日照庭の空気を一変させるには十分だった。
人参の根の一部が、鋭く欠けていた。
断面から白く淡い光を帯びた香が、糸を引くように噴き出す。止める間もなく量が増していく。
「――おい」
戻ってきた耕稔の足が止まった。いつもの笑顔が、音もなく消える。
「な……」
駆け寄り、両手で欠損部を包み込む。指の隙間からも香が漏れ続けた。
「誰か来い!! 香が止まらねえ!!」
叫んだ声に、日照庭の空気がざわめく。
だが異変はそれだけでは終わらなかった。兎の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……気持ち、悪ぃ……」
齧った人参由来魂の魂香を体内に取り込んだまま、処理しきれずにいる。腹の中で何かが暴れているようだった。
「……おい?」
兎の膝が崩れる。地面に手をつく間もなく、そのまま倒れかけた。
「お前もかよ!!」
耕稔は一瞬だけ天を仰いだ。そして次の瞬間には、もう体が動いていた。
片腕に香を漏らし続ける人参を、もう片方の腕にぐったりした兎を抱え上げる。二人分の重さをものともせず、耕稔は治療区画へ向かって走り出した。
「道開けろ!! 急患二人!!」
通路にいた職員が振り返る。
「二人!?」
「齧られたのと齧ったの!!」
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低気圧
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「何があったんですか!?」
「見りゃ分かるだろ!!」
――分からない。
耕稔の腕の中で、人参の葉が力なく揺れていた。
コメント
1件
うわあ…第32話、読み終えたよ。人参が美味しそうに描かれてて、つい私もかじりたくなった…耕稔さんの慌てっぷりがちょっと可愛くて、でも兎の症状がリアルで怖い。香が漏れ出す描写とか、一口で全部が崩れる感じがすごく生々しかった。次どうなるんだろう…続きが気になるよ🥀