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◻︎憧れの夫婦
「ごめんね、美和子、手伝わせちゃって」
「いいよ、これくらい。それにしても意外と重いんだね、こういうものって」
私は、大人用の紙おむつやお尻拭きや脱脂綿やガーゼの入ったビニール袋を両手に四つさげて、礼子の後に続いた。
今日は、礼子が相談に乗っているご夫婦の家に、必要なものを届ける日らしい。
礼子はあれから一生懸命勉強して、一つ資格を取ってその資格を生かして働き始めた。
主に悩みや相談事を聞いて関係各所につなぐ、そんなことだと言っていた。
ソーシャルワーカーといっても色々あるらしい。
「奥様がもう、余命が短くてね。ご主人はどうしても家で自分で介護したいと言って、病院から退院したの」
「ね、そういう人って簡単に退院できるものなの?」
「なかなか難しいんだけどね、訪問診療をしてくれるドクターや看護師さんと話し合って、あとはご本人の意志とご家族の協力と。越えなければいけないハードルは高いよ」
「最期は畳の上でとか、住み慣れた家でとか思うよね、やっぱり。でも、たいていは病院だよね?」
「うん、だけどそのご夫婦はとてもお互いを思いやってらしてて、奥様はご主人に迷惑をかけたくないから病院でとおっしゃるし、ご主人は最期くらい夫婦水入らずで過ごしたいと強く希望されてて…結局はご主人の希望を叶えることになったんだよ、間違いなく奥様もそうしたいんだろうなって感じたから」
「夫婦愛かぁ」
「うん、そうだね」
車をとめてから、そのご夫婦の家まで5分ほど歩く。
もうそれほど寒い季節でもないけれど、空気は乾燥していて喉がカラカラになる。
「あ、あそこよ」
「ふへーっ、やっと着いた!」
ピンポーン🎶
「こんにちは!三滝総合病院から参りました、酒巻礼子です」
パタパタと足音がして、玄関の引き戸の鍵が開けられ、中から初老の男性があらわれた。
「ありがとうございます、さ、どうぞ中へ」
「はい、あ、こちらはお手伝いできてもらった…」
「田中美和子です、失礼します」
「おそれいります、さぁ、どうぞ」
スリッパが二つ並べられた。
「こちらです。一恵、病院の方が必要なものを届けてくださったよ」
通された部屋は、この家で一番日当たりが良く、広い部屋だった。
すぐに縁側があって、柔らかい日差しが板の間に降り注いでいる。
大きな介護用のベッドと、そのそばにはゆったりした籐の椅子と、小さなテーブルがあった。
「こんにちは。お手数をおかけします」
ベッドに寝たままで、奥様が声をかけてくれる。
「お加減はどうですか?」
荷物を置いて、慣れた様子でベッドに近づき、一恵と呼ばれた奥様に話しかける礼子。
_____なんだか、とても落ち着いていてできる女に見えるな
自分に自信が持てると、こんなに女は変わるものなんだろうか?
ばあさんの介護で疲れきっていた頃の礼子とは、大違いだ。
「今日は、お天気もいいからいい気分ですよ、ありがとう」
「それはよかったです。ご主人は、何か困ったこととかないですか?私でできることがあれば遠慮なくおっしゃってくださいね」
「ありがとう、酒巻さん。こんな風に家で妻と2人で過ごせる時間を作ってくれて、もう何も言うことはありません」
奥様の髪をそっと撫でながら、ふわりとこちらを向いたご主人。
_____え?なんだろ?
穏やかに微笑むそのご主人の顔が、とても眩しく見えた。
病気の奥さんを家で自分で看ているのに、とても清潔で優しくその場の全部を包み込むような、あたたかさ。
「それはよかったです。でも困ったことがあったらすぐ、私に連絡してくださいね。もちろん体調のことはドクターでないと困りますが…」
「はい、いつもお気遣いいただき、ありがとうございます」
声まで、優しく響く。
_____あれ?私、何考えてるんだろ
「特にいまのところ、御用はないようだし。そろそろ帰りましょ、美和子?」
「え!あ、はい、うん、帰ろ」
一瞬、ぼーっとそのご夫婦を見てしまった。
奥様を見つめるご主人の優しい眼差しに、釘付けになっていた。
「どうしたの?」
「ううん、なんかお幸せそうだなって…」
思わず口をついて出た言葉だった。
こんな状況でも、とても幸せそうに見えたから。
「はい、今、とても幸せですよ」
ご主人がそう言うと、ベッドの奥様もゆっくりうなづいた。
_____あぁ、いいなぁ…
うまく説明できないけど、とても羨ましかった。
余命宣告されているらしいのに、なんて穏やかな空間なんだろう?
そこだけが陽だまりに包まれているようで、ずっとここにいたくなるような。
「ではまた、お邪魔しますね」
「はい、よろしくお願いします」
「失礼します」
玄関で靴を履き、改めてご主人の顔を見た。
_____あっ!あの俳優みたいだ
どうも、と微笑む姿は大好きな映画俳優にそっくりだった。
「ありがとうございました」
帰り道、そのご夫婦のことを礼子に質問していた私。
「守秘義務もあるから、詳しい話はできないよ。どうして?」
「えっ!あ、うん、その、小説のヒントになりそうだったから…」
「おっ、さすが未来の小説家さんは、少しのネタも見逃さないのね」
「あは、まぁそんなとこ」
うまく説明できなくて、誤魔化してしまった。
ざわざわとするような、泣きたくなるような、こんな感情はなんと呼べばいいのだろう。
あの人の名前は、石崎秀雄、60才。
奥様は一恵、55才。
礼子はそれだけ、教えてくれた。