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#連載小説
観察者
310
椿
27
私が関わらなければ
山の向こうから聞こえてくる轟音。
私は立ち止まった。
目の前の道路が、わずかに揺れている。
いや、揺れているのは道路だけじゃない。
電柱も、建物も、遠くの山も。
「……嘘でしょ」
足が動かなかった。
兄のもとへ行かなければ。
そう思っているのに、身体が言うことを聞かない。
頭の中では、あの夜の光景が何度も繰り返されていた。
血に染まったベッド。
助けを求める利用者さん。
私を指差した女。
私は助けようとした。
ちゃんと救急車を呼んだ。
できることはしたはずだった。
それなのに、どうして?
どうして、私が関わった人ばかり死んでいくの?
「私のせいじゃない……」
小さく呟いた。
「私のせいじゃないよね……?」
誰に聞いているのか、自分でも分からなかった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には兄からの着信履歴。
何度も何度も電話をかけてきている。
私は折り返そうとした。
けれど、指が止まった。
もし、電話に出たら。
もし、兄の声が聞こえなかったら。
もし、また私のせいで誰かが死んでいたら。
そんな考えばかりが頭を埋め尽くす。
私は泣いていた。
怖かった。
誰かを失うことも、自分が死ぬことも。
でも、それ以上に怖いことがあった。
自分が生き残ってしまうことだった。
⸻
私は兄の家に向かった。
途中、何度も後ろを振り返った。
誰もいない。
それなのに、誰かに見られている。
足音が聞こえる。
一歩。
また一歩。
私が止まると、足音も止まった。
振り返る。
誰もいない。
「もうやめてよ……」
声が震える。
「何がしたいの?」
返事はない。
すると、すぐ耳元で声がした。
『あなたが助けたかったんでしょう?』
私は凍りついた。
『なのに、死んじゃったね』
「違う……」
『あなたが来なければ、もっと早く終わっていたのに』
「違う!!」
思わず叫んだ。
通りすがりの人が不思議そうにこちらを見る。
私は慌てて頭を下げた。
誰にも見えていない。
誰にも聞こえていない。
私だけがおかしくなっている。
そう思いたかった。
⸻
兄の家に着いた。
玄関のドアを何度も叩く。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
返事がない。
鍵は開いていた。
恐る恐る中に入る。
「お兄ちゃん……?」
リビングには誰もいない。
テーブルの上には、飲みかけのコーヒー。
まだ温かかった。
私は少しだけ安心した。
生きている。
まだ近くにいるかもしれない。
そのとき、奥の部屋から物音がした。
「お兄ちゃん?」
ドアを開ける。
そこには誰もいなかった。
ただ、壁に一枚の写真が貼られていた。
家族5人で暮らしていた頃の写真。
母も、姉も、兄も、私も写っている。
そして、義理の父。
懐かしいはずの写真なのに、今は見るのがつらかった。
あの頃は、こんなことになるなんて思わなかった。
母と姉がいなくなり、家族はバラバラになった。
私は一人暮らしをしようとしていた。
家族から離れれば、少しは楽になれると思っていた。
でも今は違う。
一人になりたくない。
誰かにそばにいてほしい。
誰か、私が見ているものを信じてほしい。
写真に触れようとした瞬間。
背後から声がした。
『家族って、いいね』
私は振り返った。
部屋の隅に、あの女が立っていた。
長い髪が床についている。
顔は見えない。
でも、笑っているのが分かった。
「……来ないで」
女は動かない。
『あなたが守りたいものは、どれ?』
「何の話……?」
女の腕がゆっくり上がる。
指先が写真の中の兄を指した。
『この人?』
私は首を横に振った。
「やめて……」
『それとも、こっち?』
今度は私を指した。
『あなたは、自分が助かりたい?』
私は答えられなかった。
女の指が、ゆっくり私の胸元へ向けられる。
そして、初めて聞く言葉を口にした。
『あの夜、あなたが助けた人はね』
私は息を止めた。
『まだ、生きているよ』
「……え?」
『本当に死んだと思っていたの?』
女の姿が、すうっと消えていく。
私は慌てて追いかけようとした。
「待って! どういうこと!?」
返事はなかった。
その代わり、テーブルの上のスマートフォンが鳴った。
知らない番号。
私は恐る恐る電話に出た。
『もしもし……』
聞き覚えのある声だった。
あの夜、最初に襲われた利用者さんを担当していた看護師の声。
『あの利用者さんのことで、どうしてもお話ししたいことがあるんです』
「……何ですか?」
しばらく沈黙が続いた。
そして看護師は、小さな声で言った。
『実は、あの方……搬送先の病院で、一度だけ目を覚ましたんです』
私はスマートフォンを握りしめた。
『そのとき、あなたの名前を呼んでいたそうです』
「私の……?」
『はい。それで、こう言ったらしいんです』
看護師の声が震えた。
『あの女を、連れて帰らないで』
私は何も言えなかった。
その瞬間。
背後の鏡に、女の姿が映った。
そして女は、私の肩に手を置いていた。
コメント
1件
ああ、めっちゃゾクッとした……「生き残ってしまうこと」が怖いって、その感覚わかる気がするわ。自分を責める主人公の心理が丁寧に描かれてて、特に「家族写真を見るのがつらかった」とこ、グッときた。最後の鏡のシーンはマジで鳥肌。看護師から聞いた「あの女を連れて帰らないで」がめっちゃ気になる!続きどうなるんだろう……