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連れて帰ったもの
『あの女を、連れて帰らないで』
看護師の言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
「……どういう意味ですか?」
私は震える声で聞き返した。
『それが、私にも分からないんです。ただ、利用者さんはあなたの名前を何度も呼んでいたそうです』
「その方は今、どこにいるんですか?」
『病院です。でも……』
看護師は言葉を詰まらせた。
「でも?」
『昨日から、意識が戻らないそうです』
私は目を閉じた。
まただ。
助かったと思ったのに。
生きていると聞いて安心したのに。
結局、何も変わっていない。
「私が……行きます」
電話を切った。
その瞬間、鏡の中の女が消えていた。
私はゆっくり振り返る。
誰もいない。
肩には、冷たい手の感触だけが残っていた。
⸻
病院へ向かう途中、私は何度も自分の手を見た。
あの夜、利用者さんを助けようとした手。
救急車を呼んだ手。
あの女に向かって、やめてと叫んだ手。
もし、あのとき。
私が部屋に入らなければ?
私があの女に気づかなければ?
利用者さんは、あんな目に遭わずに済んだのだろうか。
いや、違う。
助けに行ったことは間違っていない。
そう自分に言い聞かせた。
でも、心のどこかで思っていた。
――私が見てしまったからだ。
あの女に気づいてしまったから。
あの女は、私を選んだ。
⸻
病院に着くと、看護師が待っていた。
「来てくださったんですね」
私は小さく頷いた。
病室に案内される。
ベッドの上には、あの利用者さんが横たわっていた。
顔色は悪く、呼吸器の音だけが静かに響いている。
「……すみません」
私は思わず口にしていた。
「助けられなくて、ごめんなさい」
返事はない。
私はベッドの横に立った。
そのときだった。
利用者さんの指が、わずかに動いた。
「え……?」
看護師が近づく。
「どうしました?」
私は利用者さんの顔を見つめた。
閉じていた目が、ゆっくり開いた。
そして、私を見る。
焦点の合わない目。
それなのに、確かに私を見ていた。
「……あ……」
声にならない声。
私は身を乗り出した。
「大丈夫ですか? 私が分かりますか?」
利用者さんの唇が動いた。
「う……しろ……」
「え?」
「うしろ……」
私は振り返った。
誰もいない。
もう一度、利用者さんを見る。
すると、その目から涙が流れていた。
「あなた……の……」
「私の?」
利用者さんは、最後の力を振り絞るように言った。
「あなたの……後ろに……いる」
その瞬間、モニターの音が乱れた。
看護師が慌てて処置を始める。
「すみません! 少し離れてください!」
私は後ろに下がった。
そして、病室のドアのガラスを見た。
そこに映っていた。
私の後ろに立つ女。
今度は顔が見えた。
顔の皮膚は不自然に伸び、口元だけが大きく裂けている。
目は真っ黒だった。
女は私を見ていた。
そして、ゆっくり口を動かした。
『やっと会えた』
私は叫びそうになった。
その瞬間、病室の電気が消えた。
⸻
病院を出たのは夕方だった。
私は何も考えられなかった。
利用者さんは、また意識を失った。
医師からは、今後の状態は厳しいと説明された。
私は何度も謝った。
誰に謝っているのかも分からない。
家に帰るのが怖かった。
でも、帰らないわけにはいかない。
玄関の鍵を開ける。
「ただいま……」
当然、返事はない。
一人暮らしの部屋。
静かな部屋。
以前は、この静けさが欲しかった。
家族と離れて、自分だけの生活がしたかった。
なのに今は、この静けさが恐ろしい。
私は電気を全部つけた。
リビング。
キッチン。
洗面所。
浴室。
どこにも誰もいない。
そう確認して、ようやくソファに座った。
そのとき、スマートフォンに通知が届いた。
Googleマップだった。
見覚えのない通知。
私は開いてしまった。
画面には、現在地の航空写真。
そして、3D表示。
建物が映っている。
私の住んでいるマンションだった。
何気なく拡大する。
その瞬間、手が止まった。
マンションの屋上に、人影がある。
長い髪。
白い服。
こちらを向いている。
「……また?」
私は画面を閉じようとした。
しかし、指が動かなかった。
人影が、ゆっくり動いた。
屋上から、こちらを見下ろしている。
そしてスマートフォンの画面に文字が浮かんだ。
『ここにいるよ』
私は勢いよく窓を見た。
カーテンは閉まっている。
その向こうに、誰かが立っている気がした。
私は息を殺した。
すると、窓の外から。
コン。
一度。
コン。
二度。
そして三度目。
コン。
「……開けて」
女の声だった。
私は口を押さえた。
「開けてよ」
窓の向こうから、また声がする。
「あなたが連れてきたんでしょ?」
違う。
私は連れてきていない。
そう思いたかった。
けれど、次の言葉で身体が凍りついた。
「あなたのお母さんも、知ってるよ」
「……え?」
「お姉ちゃんもね」
私はスマートフォンを落とした。
母と姉。
海外にいるはずの二人。
なぜ、そのことを知っている?
そして女は、窓の向こうで笑った。
「家族みんなで、また暮らせるね」
その瞬間、母から電話がかかってきた。
私は震える手で電話に出た。
『もしもし?』
久しぶりに聞く母の声。
私は泣きそうになった。
「お母さん……」
『どうしたの? 声がおかしいよ』
「今、変なことが起きてて……」
母は少し黙った。
そして、信じられないことを言った。
『あんた……あの女を見たの?』
私は息を止めた。
「……どうして知ってるの?」
電話の向こうで、母が小さく息を吸った。
『お願い。今すぐそこから逃げて』
「何で? お母さん、何を知ってるの?」
『あの女はね……』
母の声が震え始めた。
『昔、お姉ちゃんを連れていこうとしたの』
その瞬間、電話の向こうで大きな音がした。
ガシャン。
母が悲鳴を上げる。
そして、電話が切れた。
私は何度もかけ直した。
繋がらない。
メッセージも既読にならない。
そのとき、スマートフォンに新しい通知が届いた。
Googleマップ。
今度は海外にいる母と姉の現在地が表示されていた。
二人の位置情報が、同じ場所で重なっている。
そして、その場所には――
赤いピンが一つ。
画面を拡大した。
そこは、山の中だった。
私が最初に見た、あの大量の水が流れてくる山。
そして画面の下に、一文が表示された。
『あと3人。今度は家族の番。』
私は声を上げて泣いた。
もう嫌だった。
誰も死んでほしくない。
母も、姉も、兄も。
私が嫌だと思って家を出たことさえ、今は後悔していた。
あの家にいればよかった。
みんなと一緒にいればよかった。
そうすれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
そのとき、部屋の奥から声がした。
「お姉ちゃん?」
私は顔を上げた。
そこには、誰もいない。
でも、確かに聞こえた。
幼い頃の姉の声だった。
「ねえ、お姉ちゃん」
もう一度。
「こっちにおいで」
私は立ち上がった。
その声が聞こえたのは、クローゼットの中からだった。
コメント
1件
ちょっとお話の重さに息を止めちゃった… 「やっと会えた」のシーンがもう、怖すぎて声出なかったよ。 GoogleマップとかSNSの位置情報を使った演出もゾッとする…まさかそこから家族の過去に繋がるなんて。 助けたはずの人にも、自分にも、家族にも、全部ゆっくり呪いが回ってきてる感じがして、読んでて胸がぎゅっとなった。 あのクローゼットの「おいで」で終わるの、ずるいよ…続きが気になって眠れないよ…🥀
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観察者
310
椿
27