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エージェント67
目を覚ますと、寮に居た。 昨日の記憶は、ひどく熱を帯びたまま曖昧だ。
『デリート・メモリーを再開します』
…脳の奥で、そんな声がした気がした。
声に従うように、鮮明だったはずの光景が、端からボロボロと崩れ落ちていく。
桃髪の女性に出会ったこと。名前は…思い出せない。
鋭い殺意、苺の瞳、大勢の影が居たこと。
それだけを残骸として、私の昨日は消去された。
「服、どこ…?」
足の踏み場もない床は、知識と記録と脱殻の墓場だ。
人間には『汚部屋』と蔑まれるらしいけれど、私にとってはこれくらいの混沌がちょうどいい。
服の山をかき分け、昨日の|記憶《におい》を探す。
昔から、自分を着飾ることに興味なんてなかった。
けれど、ヒカリさんが褒めてくれるから。ヒカリさんが喜ぶ私でいたいから。
「ヒカリさん、ヒカリさん。…今、貴方はどこで私を見ているの?」
ヒカリさんは死んだ。知ってる。この目で見た。
でも、期待しちゃう。…あれは悪い夢で、本当はヒカリさんは生きているって。
私が“いい子”にしていれば、いつか迎えに来てくれるって。
何千、何万回。ありもしない『もしも』を、心の中で反芻している。
服を見つけ、私は着替える。
適当に、けれど完璧に。私の意識とは無関係に、指先が勝手に髪を整え、私は寮を出る。
ぼんやりとした頭で廊下を歩いていると、向こうから見覚えのある「桃色」が近づいてきた。
「おはよぉ、幹部補佐さん。昨日は酷い顔してたけど、よく眠れたぁ?」
…誰…?
この桃色の女性、どこかで――。
『照合中……該当データが破損しています』
思い出そうとするたび、脳の奥で鋭い火花が散る。
「おはよう…」
私が絞り出した声に、桃色の女性は面白そうに首を傾げる。
「あれぇ?あたしぃの名前、忘れちゃったぁ?」
…照合はまだ終わらない。
無機質な肯定としてこくりと頷くと、桃色の女性は堪えきれないといった風に吹き出した。
「あっはは! 正直な子、好きだよぉ。あたしぃは月実。そのちっぽけで可愛い頭に、ちゃあんと叩き込んどいてねぇ」
月実が私の額を、指先でトントンと優しく、慈しむように叩く。
吐息が届くほどの距離。私の脳内で『接近警報』が鳴り響き、反射的に一歩下がってしまった。
「可愛いねぇ。そんな可愛い子には、面白いモノを見せてあげるよぉ」
…逆らえない。彼女の言葉は、まるで甘い毒のようだった。
先を歩く月実の背中を、私は引き寄せられるように追っていく。
不意に、彼女の指が私の指に絡みついた。驚くほど柔らかく、湿り気を帯びた熱。
その体温が、私の凍りついた思考をじりじりと溶かして、奪っていく。
「あたしぃが、一番好きな景色を見せてあげるよぉ」
…ああ、やっぱり。この人は女神様だ。
私のような玩具にも、こんなに優しくしてくれる。
連れて行かれたのは、地下のさらに奥。
甘ったるい消毒薬の匂いと、腐った鉄のような臭いが混ざり合う場所だった。
「ここは…?」
「ここは、夜統で一番、綺麗な『色』が見られる場所ぉ」
月実が苺のような瞳を細め、実験台で震える男に歩み寄る。
その手には、見たこともないほど太い注射針が握られていた。
『警告:未知の恐怖を検知。回避行動を…』
脳内の警告を、私は無視した。
だって、彼女の瞳があまりにも綺麗に輝き始めたから。
「見てて、今からいい声を出してあげるぅ♡」
銀色の針先が、男の皮膚を裂く。
その瞬間、世界が赤で塗り潰された。