「ここは何回か来ててね。一見さんはダメだから。ラッキーだぞ」「ありがとうございます」
一見さんお断りの店に入るなんて、もちろん初めてだ。
藍里には、本当に申し訳ない。
店の雰囲気は、普通の食堂やファーストフードとはまるで違った。
カウンター席の向こうに、大将と何人かの板前が並ぶ。
調理する様子が、席からはっきりと見えるのか。
こんな店なら、もう少しいい服を着てくればよかった。
事務長も知っていたのなら、そう言ってほしかった。
「ビールは飲む?」
……本当は、お酒は控えるようにと言われている。
でも、少しなら。私は黙って頷いた。
事務長と食事をするのは、これが初めてだ。
今まで何度も誘われていたが、のらりくらりとかわしてきた。
おじさん、と本人は言うが、もう50を過ぎている。
だが、身だしなみは整っていて、清潔感もある。
問題は、口だ。
見た目は悪くないが、会話の中にセクハラ発言が多い。
とはいえ、不思議なことに、気分を下げるような話はしない。
むしろ、気分を上げるようなことを言ってくる。
「可愛いな」「セクシーだな」――そんな言葉は、嫌いだ。
それでも、彼と会うようになってから、肯定されることが増えたのは事実だった。
板前のひとりが、こちらへやってきた。
他の板前と比べると、若い方だろう。
私の相手をする客層に多い、20代後半から30代前半、といったところか。
――いや、一般人を、風俗を利用する男と比較するのは違うか。
器を添える手が、やけに綺麗だった。
爪も、しっかり整えている。
「雨、すごいですよね……」
私は彼の手元をじっと見ていたから、不意に声をかけられて驚いた。
「あ、はい……そうですね」
「今週いっぱいは降るそうで」
「……そうみたいですね」
「お好きではないですか? 雨」
初対面なのに、まるで確信をついてくるような言葉だった。
手元から、彼の目へと視線を移す。
二重で、クリッとした瞳。
優しそうな目をしている。
「そうなのよ。この子、雨が嫌いでね。せっかく神奈川から愛知に旅行で一週間泊まりなのに、残念だよ」
旅行ではない。
事務長は、どうしてそんなことを言うのか。
「関東からお越しですか。お疲れでしょう」
「ありがとうございます」
「ごゆっくりお召し上がりください」
そう言って、板前の彼は去っていった。
「どうだ、あの男」
「……どうって、どうもしないです」
正直なところ、若い男性を目の前にすると、少し緊張してしまうらしい。
指先が、汗ばんでいるのがわかる。
5年間、何人もの若い男を相手にしてきた。
画面越しとはいえ、慣れていたはずなのに。
……生身の男となると、話は別だ。
彼氏は2人いたけど、どちらも年上。
2人目とは、もう2年前に別れた。
「あの彼も、君と話している時、頬が赤くなっていたぞ」
「え?」
「それに、一見さんである君の方しか見ていなかった。 それほど魅力的な女性なんだよ。自信を持ちなさい」
ふと、持ち場に戻った板前の方を見る。
――確かに、頬が赤い?
いや、気のせいだろう。
「そんなことないです」
「神奈川では、若いキャストが増えた。でも、お客さんの中には、若い子だけじゃなくて、君みたいな熟した美しい女性を求めている人もいるんだよ」
「……少ないですけどね」
「体も綺麗だし、声も色っぽい。パフォーマンスも、素人っぽさが抜けてなくて、そこがまたいい」
こんな素敵な料亭で話す内容じゃない。
声のボリュームを抑えているとはいえ、恥ずかしさが込み上げる。
それに、彼は知っているのだ。
私のパフォーマンスも、身体も――画面越しに。
恥ずかしい。
そう思ったら、キリがないが。
出された刺身を口に運ぶ。
次々と運ばれる料理を味わう。
見た目も、味も、美味しい。
ビールに合う。
――これが、そうなのか。
気づけば、二杯目のビールを、あの板前に注いでもらっていた。
顔を見るのが恥ずかしくて、視線を落とす。
化粧も、そこまで直さなかったし。
それにしても、雨がひどい。
その時だった。
「おい、ちょっとさぁー」
隣の隣の席から、男の声が聞こえた。
大声ではないが、威圧感がある。
ねちねちと文句を並べている。
心拍数が、急に上がる。
――ダメだ。
この声、このトーン、この雰囲気。
嫌な記憶が、呼び起こされる。
体が、震える。
外の雨の音。
どこかで響く、ドアが開く音。
その瞬間。
「……ああああああっ!!!」
「橘さん?! ちょっと!」
訳もわからず、店を飛び出した。
冷たい雨が、容赦なく降り注ぐ中へ。