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ネチネチと続く言いがかり、ものに当たる音、言葉にならない威圧感。
そして、雨。
仕事の疲れ、お酒の酔い、生理前のメンタルの不安定さ、初めての店への緊張、そして目の前の生身の若い男――。
体も心も、もう限界だった。
頑張らなくちゃ。私が働かなきゃ、藍里との生活が成り立たない。でも、こんなに辛い思いをしてまで……
――でも、綾人と結婚していた頃に比べたら……。
でも。でも。私が我慢すれば、すべて丸く収まる……?
考えが堂々巡りを始めたその時、ふいに視界が暗くなった。
何かが覆いかぶさる。温かくて、少し湿っている。
「お客様、大丈夫ですか? 早く、こちらへ……」
……この声、さっきの板前の。
ふわりと体が浮いた。
――えっ。ちょ、これ……?
お姫様抱っこ!?
耳に響く雨の音、足元で鳴る下駄の音。
そんなに大柄には見えなかったのに、私は軽々と抱えられ、どこかの屋内へと運ばれていく。
「大丈夫かしら。つづはら君、奥のお座敷までお願いね」
おかみさんの声がする。
気力が尽き、私はぐったりとしたまま、彼の腕に身を預けた。
***
気がつくと、柔らかい布団の上に横たわっていた。
ふと目を開けると、さっきの板前――つづはらさんが、ずぶ濡れになっている。
「すみません、おかみさんが色々と用意してくださってますが、風邪をひきますから、まずは体を拭いてください」
そう言ってタオルを手にした彼は、自分を拭かずに、私の髪や腕を丁寧に拭ってくれる。
「橘さん!」
事務長の声がした。
「お薬、飲んだほうがいいんじゃないか」
……こんな状態で飲める気分じゃない。
「どこか体調が悪いのか? 持病とか?」
「精神科に通ってるから安定剤飲まないと」
やめて。こんな初対面の人に、あけっぴろげに言わないでよ。
それに心療内科よ。
そんな言葉を飲み込んだまま、意識がぐらぐらと揺れた。
「その薬……なんですか。見せてください」
事務長が無造作に私のバッグを漁る。
「ああ、ナプキン……やめて!」
慌てて手を伸ばすも、事務長は気にも留めず、薬の瓶を取り出した。
「そうだ、生理もあるから貧血……」
「それじゃなくて、お薬を」
「……あった、これだ」
つづはらさんが手を止め、ラベルを見つめる。
「……さっき、お酒を飲まれてましたよね。これ、今飲んだら危険ですよ」
そうだった。医者にも、アルコールを摂った日は薬を控えるようにと言われていた。
「詳しいねぇ」
「……ええ。僕も昔、飲んでましたから」
どこか遠い目をした彼は、そう呟いた。
「そこまで詳しくはないですが、今は無理に薬を飲まず、しっかり休んで栄養を摂るほうがいいですよ」
「旅行中だけど、無理はしないほうがいいわね。きっと一日目で疲れたのよ」
おかみさんが優しく声をかけ、着替えを用意してくれた。
「……僕は先に支社に戻るよ」
事務長がこっそり耳打ちしてきたが、正直、気持ち悪かった。
「僕は店に戻ります。早く着替えて、体調が落ち着くまでここで休んでください」
「……ありがとうございます……」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「……あなたも、自分の体を拭いて」
「あっ、そうだった……ありがとうございます。僕も着替えますね」
……気づかなかった、なんて。
***
襖越しに聞こえる衣擦れの音。
ああ、彼も向こうで着替えているのかしら。
って、何を考えてるの、私……。
私はおかみさんに用意してもらった黒のワンピースに着替えた。フリーサイズだからか、窮屈さはない。
なんとか立ち上がると、ポケットにナプキンを忍ばせ、トイレへ向かおうとした。
――コンコン。
扉を叩く音。
「……大丈夫ですか?」
つづはらさんが、カゴを抱えて立っていた。
「濡れたお洋服をお預かりします」
私は持っていた服をそっとカゴに入れる。
「お手洗い、どこですか?」
「ご案内します。歩けますか? あ、履き物も……」
至れり尽くせりだ。体はまだ冷えていたけれど、彼の差し伸べた手から、温もりが伝わってくる。
「……すみません、私のために」
「大丈夫ですよ、さくらさん」
――えっ。
なんで下の名前を……?
ああ、入店時に記入したんだったかしら。
「僕、つづはらと申します。つづはら……しぐれ」
しぐれ。なんて珍しい名前。
「しぐれ……時に雨、時雨です。僕、最後までお店にいますので、帰りは泊まり先まで送りますよ」
……泊まり先。
あの仕事のための下宿先を知られたら……。
「そこまで……していただかなくても」
そう言いかけた時、時雨が私の手をそっと握った。
「……させてください」
――えっ。
「……あなたに、一目惚れしたんです」