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ああ、今日も嫌になる。
足を骨折して寝た切り状態の姑のからだを拭いて、床ずれを起こさないようにからだの向きを変えて。流動食を食べさせて。それをするのは全部全部自分……なのだから。
真由佳の嫁ぎ先は元々畳屋ではあったが、開店休業状態だ。舅が亡くなり、腕のある者がいなくなり、いまは、学校やマンションがらみで発注があり、糊口をしのぐ日々。
生活に余裕もない。夫の真は、ほぼ、ニート状態だ。
息子は保育園卒業間近とはいえ、手がかかることには変わりない。母親である真由佳が苦労して介護をし、その合間を縫って食事を作るのに、平然と残したりもする。
この家に自分の理解者は誰もいないのか。……なにやら夫は最近やたらと出かけて羽振りがいいし、気味が悪い。
ある日、眠る夫のスマホをいじっていると、とんでもない証拠を見つけた。――女とやり取りをしている……!!
この男。家では本当になにもしない。小さな店で細々とした仕事をこなすだけの無能な男のくせに。真由佳が、もやしは39円では絶対に買わない。車を走らせて遠いスーパーへ行き、19円で買っているのを知らないのか?
ブラウザを開けば女物の指輪を買っていることが分かり、あっさりと、夫の浮気が判明した。
しかしながら相手が、――鷹取汐音。何年か前に、一世を風靡したカリスマ主婦であることが分かり、驚きや悔しさよりも、嬉しさのほうが勝った。まさか。うちの役立たずを、鷹取汐音さんが相手してくれているなんて……嘘みたい。
その日のうちに、鷹取汐音と連絡を取った。汐音のほうは、最初はびっくりした様子だったが、近いうちに会いたい、尊敬している旨を告げると、満足そうに了解した。
そして翌日。畑山真由佳の運命を変える出来事が待っていた。
* * *
「……ここが、Y山か……素敵なところに連れてきてくれてありがとう。真由佳さん……」
どうしても山が見たい、と無茶を言うので、車いすに乗せてなんとか姑をY山へと連れて来た。
姑は感極まったといった様子で、改めて、真由佳さん、と声をかける。
「……わたしは老いぼれじゃから。このまま迷惑をかけて生き続けるのは忍びない。……どうか、わたしのことを、ここに、置き去りにしてくださいませんか?」
真由佳は戦慄した。ずっとずっと……姑のことが邪魔だった。毎日しなければならないタスクが多すぎて、うんざりしていた。――分かっていたのだ。伝わっていたのだ。
それまで、こころを込めて介護をしていたつもりだったのだが。本心は、この姑に筒抜けだったということか。
下の世話をするときが辛く。浣腸をするのが辛かった。吐き気がして、でもそんな匂いに慣れてしまう自分も、嫌だった。
「いままでありがとう真由佳さん」姑は、目に涙を浮かべて言った。「あなたがいままでしてきてくださったことすべてに……感謝をしています……本当に、ありがとう、真由佳さん。どうかこれからは自由に生きてね……子育ても大変だろうけれども」
「……お義母さん……」
「ありがとう。真由佳さん。……至らない姑でごめんなさいね。あなたのことは忘れないわ。死ぬ最期の瞬間まで、ずぅっと、あなたには感謝して生き続けるわ。長い間、お疲れ様でした」
車いすに座ったままの義母と抱擁を交わし、……義母の言いつけ通り、義母を山に残し、車で真由佳は去った。
* * *
「はぁ? ……おまえ、なに言ってんだよ。馬鹿なのか!?」
その晩、真からすると実の母親である、真由佳の姑が、不在であることを不審に思った真からは案の定、長い間の介護に耐えてきた真由佳に対する感謝の言葉は吐かれなかった。
正直に、姑の意志であることを伝えた。……にも関わらず、真は激高した。
「おふくろが心配だ」と帰ってきたばかりの真はジャケットを着こみ、「……車出すから。いまから探しに行ってくる。Y山だよな?」
「……あなた、自分がなにを言っているのか、分かっているの?」白けた気持ちで真由佳は夫の背中を眺めた。この背中に汐音の手が回されたのかと思うと……腹の底が煮え立つような、不思議な思いがする。ひとがこんなに苦しんでいるのに、あんたは。あんたってやつは。「お義母さんは、わたしの苦労を知っていて、敢えて、身を引いてくれているのよ……そんな思いを無下にしていったいなんになるというの? それともあなたが今後はお義母さんを介護するとでも言うの?」
「うるせえよッ!!」唾を飛ばす真を白けた気持ちでまた真由佳は見つめていた。「これからのことは、連れ帰ってから考えりゃあいんだよっ!! おまえはとにかくここで待ってろ!!」
そうして、車庫へと周り、車へと近づく夫の頭を気づけば、――そこらへんにあった角材で、真由佳は、思い切り殴りつけていた。
頭から血を流し、動かなくなった夫をどうしたものか。――咄嗟に真由佳は、汐音に電話を入れ、別の人間に息子の留守番へと任せ、Y山へと夫を捨てた。
はずなのに。――何故、夫が目の前に?
「ホームレス同士のネットワークってあなどれないのよね。……三年前に、Y川の近くのホームレスに新しいひとが入ったって。その姿特徴が、結婚式で見たときの、真さんにそっくりで。……それで分かったの」
生きていたのか。
動かなくなったから、てっきり……自分は、殺したとばかり……。
真由佳に感動は訪れなかった。
真由佳の前に立つ真は、なんてことをしてくれてんだ、と吐き捨てるように言った。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」その場で有香子の前で土下座をする真に、真由佳は驚愕した。――あなた、いったいなにをやっているの!! 「うちの愚妻がとんでもないことを……。本当に、申し訳ありませんでした……」
浮浪者なら浮浪者らしく汚らしい格好をしていればよいものを。髭をそったさっぱりとした風貌で姿を現したことがなお、真由佳の怒りを加速させた。
「――死んじゃえっ!! あんたなんか――」
真由佳の振り上げた手を掴んだのは、……悲し気な目をする、水萌だった。
髪は、いつ、切ったのか。金髪のベリーショートで、このビジュアルの女に、真由佳は、思い当たる節があった。
「あんた……うちの周りをうろついていたのは水萌……あんただったのねっ!!」
「……友達だからさ」寂しそうに水萌が言った。真由佳の手を下ろしながら、「友達だったら、友達がなんか悪いことしてるのを止めてあげないと。それが友達ってもんじゃない?」
その場に突っ伏して真由佳がわぁわぁ泣いた。第一幕はここまでとなる。――続いて、中島、汐音、山崎サイドの正義と憤怒が明らかとなる。
*