テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
鷹槻れん

53,239
篠原愛紀
821
ジョシュアの胸の中で心地よい余韻に浸りながら、ステラはふと、窓の外に広がる夕焼け空を見つめていた。
この温かい腕に抱かれるたび、彼女はいつも、自分の原点である「あの日」を思い出す。
それは、今から十年前――二人がまだ五歳だった頃の記憶。
「う、うう……私、もう、お勉強したくありません……」
アストリア公爵家の美しい庭園の片隅。
幼いステラは、薔薇の茂みの陰で膝を抱え、小さな身体を震わせて泣いていた。
国王陛下から直々に下された「第一王子の婚約者」という内定。
それは名誉であると同時に、五歳の少女にはあまりにも重すぎる十字架だった。
毎日、朝から晩まで続く厳しいマナーのレッスン、難解な歴史や語学の勉強。
周囲の大人たちは皆、ステラを一人の子供としてではなく「完璧なロボット」にするかのように厳しく当たり、誰も優しく抱きしめてはくれなかった。
「……誰、そこで泣いているのは?」
不意に、上から鈴の鳴るような、少年のみずみずしい声が降ってきた。
ハッとして涙で濡れた顔を上げると、そこには自分と同じ五歳ほどの、夜空の髪を持つ美しい男の子が立っていた。
幼いながらも気品に満ちたその少年――ジョシュアは、驚いたように紫がかったサファイアの瞳を丸めていた。
「あ……」
ステラは慌てて涙を拭い、教わったばかりの拙い礼をしようとした。
しかし、あまりの緊張と疲労で、小さな足がもつれて、地面に倒れ込みそうになってしまう。
「危ない!」
ジョシュアが小さな手を伸ばし、ステラの身体をぎゅっと抱きとめた。芝生の生い茂る庭に、二人で転がり込む。
「大丈夫かい?……酷い傷だ。手が擦りむけているじゃないか」
ジョシュアは自分の高価な刺繍入りのハンカチを取り出すと、ステラの小さな手の泥を、とても優しく、丁寧に拭ってくれた。
その手の温もりに、ステラの張り詰めていた心が、一気に決壊した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ。私、ちっとも上手にできなくて……皇太子妃教育が、こわくて……っ」
大粒の涙をポロポロと流すステラを、五歳のジョシュアは困ったように、けれどどこか大人のような包容力で、もう一度強く抱きしめてくれた。
「泣かないで。君が、僕の婚約者になるステラだね?」
「はい……っ、ぐすっ……」
「僕はジョシュア。……大人の言うことなんて、気にしなくていいよ。僕は、完璧な人形が欲しいわけじゃない。こんなに一生懸命で、優しい君が、僕のお嫁さんになってくれたら嬉しいな」
ジョシュアはステラの涙を小さな指で ぬぐい、太陽のような笑顔を浮かべた。
「僕が、君をずっと支える。だから君も、僕のお嫁さんになって、ずっと隣で僕を支えてほしい。二人で一緒に、頑張ろう?」
その言葉は、暗闇の中にいた幼いステラに、一筋の眩しい光を与えてくれた。この人のために、頑張りたい。
この人の特別になりたい。
泣き虫だった五歳の少女の胸に、その時、一生消えない「恋の炎」と「強い芯」が宿ったのだ。
「――ステラ? どうしたんだい、急に大人しくなって」
現在のジョシュアの声で、ステラは意識を過去から引き戻した。
目の前には、五歳のあの頃よりもずっと逞しく、美しく成長した最愛の婚約者がいる。
「いいえ、なんでもありませんわ。ただ……五歳のあの日、ジョシュア様が私を最初に見つけてくださって、本当に良かったと、そう思っていたのです」
ステラは満面の、そしてジョシュアの前でしか見せない無防備なひまわりのような笑顔を咲かせた。
ジョシュアは一瞬息を呑むと、愛おしさが爆発したように、彼女をさらに強く腕の中に閉じ込めるのだった。
コメント
1件
わあ、第5話……!五歳の出会いのエピソード、胸がぎゅっとなりました。泣き虫だったステラに「完璧な人形が欲しいわけじゃない」って言う幼いジョシュアの優しさ、もう最高です。あの一言が彼女の芯を育てたんだなあって思うと、今の二人の関係がもっと愛おしく見えます。このエピソードだけで、二人の絆がどれだけ深いか伝わってきました。ゆゆさんの描く幼い頃の思い出、いつも心にじんわり沁みます🤍