テラーノベル
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奈良が座っていたデスクでは、新たに金沢支店から異動してきた男性社員がノートパソコンのキーボードを淡々と叩いている。
数日前まで一緒に働いていた同僚の姿がフロアから消えても、何も変わらない日常が続いていた。
佐川さなは機械的な動きでベッドから起き上がり、歯を磨き、顔を洗い、化粧水を叩いて頰に軽くパウダーを乗せた。
黒い艶消しの蓋を開け、唇に乗せるとスッと肌に馴染む色味。
その瞬間、押し殺していた感情が溢れ出し、一筋の雫が流れ落ちた。
「やだ、会社に遅れる……」
涙を手で擦ると口紅が滲んだ。
「こちらの保険は従来の保障よりも手厚く、掛け金を抑えることが出来ます」
「まぁ、そうなの」
「お子さまの年齢が低ければ低いほど、月々の掛金はお安くなります」
「10歳、終身医療だと掛金は幾らになるの?」
「2,850円になります」
「掛金は変わらないのね?」
「はい、一生変わりません」
「じゃ、お願いするわ」
「ありがとうございます」
何事もなかったかのように笑顔を作り、客の前でパンフレットを広げ、和かな声色でアポイントメントの電話を入れ、深々とお辞儀をする。
何も変わらない。
何も変わらずに淡々と日々は過ぎてゆく。
そう思っていた。
奈良が金沢支店に異動をして数日後、佐川さなは営業部係長のワークデスクに手招きされた。
「はい」
手渡された一枚のA5版の白いコピー用紙には、フルカラーのチラシが重ねられクリップで留められていた。
「佐川くん」
「はい」
「この研修会、君と木倉くんで参加して欲しいんだ」
「研修会、ですか」
「十月十五日」
「はい」
「あぁ、まだ先なんだけれどね。二泊三日、空けておいて」
「は、はい」
まさかそんな事が。
金沢支社での研修会。
佐川さなは呆然と立ち尽くした。