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安心
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無一郎くんが、私を“まりん”と呼んだ。
驚いた。ひょっとして、私のことを思い出してくれたんじゃないかと、淡い期待に胸が高鳴った。
でも実際は違ったみたい。他の隠の人や銀子ちゃんが“宝生茉鈴”という人物の名前を教えたから。たまたま、無一郎くんがそのことを覚えていただけ。ちょっと寂しいけれど、久々に自分を名前で呼ぶ彼の声がひどく懐かしくて、とても嬉しくて。嫌な夢を見て泣いている無一郎くんを、私はつられ泣きしそうなのを必死で堪えながら、それまでより少し強く抱き締めた。
あの日の翌日、熱が下がった無一郎くんは、起きて解熱していることが分かるとさっさと鍛錬に行ってしまった。大丈夫かと心配になりながらも、私はいつも通り仕事に取り掛かった。
「いただきます」
私が作ったごはんを口に運ぶ無一郎くん。そして決まって、ふろふき大根がいちばん好きだと言ってくれる。
「…えっと、君の名前…“まりん”だったっけ?」
いつもと違うのは、無一郎くんが私の名前を確認してきたこと。
『あっ、はい!合っていますよ。……覚えてくださったんですね』
「君が作るごはんがいちばん美味しいから。名前を教えてもらって。どうにか君を見て名前を思い出せるようにはなったんだ」
『そうだったんですね。…嬉しいです』
無意識のうちに、覆面の下で唇が弧を描く。
『あの、時透様。隠は覆面をしていて顔は目元しか出ていないのに、どのようにして私を認識してくださったのですか?』
疑問に思ったことを素直にたずねてみる。
「んー、目が印象的だったから」
『目、ですか?』
「うん。琥珀色の綺麗な目だなーって思ってたんだ」
無一郎くんの瞳が真っ直ぐに私を捉えた。
自分だって浅葱色の綺麗な目をしているじゃない……。
『…あまり言われたことがないので…嬉しいです。ありがとうございます』
「そうなの?僕は人の顔も名前もちゃんと覚えてられないから相手の特徴とか印象で思い出すようにしてて。君のことは顔を見て名前を思い出せるようになるまでは“こはくちゃん”と思ってたんだ。琥珀色の目をしてるから」
柱の皆さんを動物に喩えて覚えていた無一郎くん。熊、狼、梟、猿、ヒヨコ、燕、山猫。水柱様に至っては“置き物”。そんな彼が、私のことは案外可愛らしい響きの名前で認識してくれていた。
『…なんか可愛いですね、“こはくちゃん”。嫌じゃないですよ』
「そう。よかった。でも僕は“まりん”って響きが好きだから覚えてる時はちゃんと名前で呼ぶようにするよ」
『はい。どちらでも嬉しいです』
私の言葉を聞いた無一郎くんが、微かに笑って食事を再開した。
「ねえ」
『はい?』
「またふろふき大根作ってくれる?」
『もちろんです。毎日お出ししますね』
「やった」
毎日毎食作っているふろふき大根。もう目を瞑っていても作れるといっても過言ではない。それ程頻繁に食べているのに、また作る約束をするとその度に嬉しそうにしてくれる無一郎くん。可愛い。
柱になって半年近く経った。
今朝方、任務から帰ってきて、今夜は自宅でゆっくり休むように言われた。
疲れてへとへとだったけれど、茉鈴の作ったごはんが美味しくて元気が出た。
料理が上手な茉鈴。他の隠の人たちも彼女の料理を絶賛していた。
茉鈴以外の隠の人が作ってくれるごはんも蝶屋敷で出されるごはんも美味しいんだけれど、正直言って茉鈴が作るごはんは特別美味しかったんだ。
綺麗な琥珀色の瞳。その特徴で茉鈴を覚えていられるようになった。
声を掛けられて「誰だっけ」となっても、その目を見たら思い出せる。目以外は覆面に隠れているから、彼女がどんな顔をしているのか分からない。でも、とても優しい目をしているんだ。長い睫毛に覆われた、琥珀色の瞳を細めて笑う彼女。それを見たらなぜだかすごく心が安らいだ。
内容は思い出せないけれど、また何か嫌な夢を見て目が覚めた。
「はあぁ……」
台所に行って水を飲み、寝室に戻ろうとしたら、一部屋灯りがついているのに気付いた。
ガラガラ……
襖を開け、そこにいた人物を見て、その部屋が茉鈴の寝室とは違う作業用の部屋だと思い出した。
『…あら?時透様、どうなさいました?』
「ちょっと目が覚めちゃって。……茉鈴は何してるの?」
まだ勤務時間だからか、夜中なのにも関わらず、茉鈴は隠の制服姿で針仕事をしていた。
『時透様の隊服が少し傷んでいたので、繕っていたところですよ』
「そう。そんなの縫製係にやらせたらいいのに」
『このくらいだったら私にもできるので、わざわざ縫製係の方に頼まなくていいかな、と』
茉鈴の手元を覗き込むと、傷んでいた箇所が分からないくらいに綺麗に補修されていた。
「…わあ…すごい。茉鈴、お裁縫も上手なんだね」
思ったことをそのまま口にすると、茉鈴が嬉しそうに笑った。
ああ、やっぱり安心するなあ。
「…ねえ、ここにいていい?」
『もちろんですよ。でもお休みにならなくてよろしいのですか?』
「あんまり眠くなくて」
『そうですか。…お腹は空きませんか?何か作りましょうか』
「あ…じゃあお願いしようかな」
茉鈴は作業の手を止めて、台所に向かった。何となく1人になりたくなくて、僕も一緒について行く。
手際よくりんごを切り、水と砂糖と一緒に鍋で煮詰める。それとはまた別の鍋で温めているのは…牛乳かな?
少しして、作っていたものが完成したみたい。
『お待たせいたしました。どうぞ』
「ありがとう。いただきます」
煮詰めたことでより一層、りんごの甘酸っぱい香りが引き立っている。
牛乳も温めるとほんのり甘くなるんだなあ。
「美味しい」
『よかったです。りんごなら消化にいいかなと思って。あと、温めた牛乳を飲むとよく眠れると聞いたので』
「そうなんだ。…美味しい……」
あったかい。美味しい。優しい味だ。嫌な顔ひとつせず夜食を作ってくれた茉鈴の優しさが全身に拡がっていく。
ふと見ると、茉鈴も覆面を軽く捲り、その下で何かを口に含んでいた。
「それは?」
『珈琲です。まだ勤務中なので眠気覚ましに』
「いい香りだね。どんな味なの?」
『苦いですよ。なので少しお砂糖を入れてます』
「へえ…」
『時透様には今度淹れますね。起きておかないといけない時に』
「うん」
夜食を食べ終わり、さっきの部屋に戻る。
『まだお休みにならなくてよろしいのですか?』
「うん。もう少しここにいたい」
『承知しました。眠れそうでしたら気にせずお部屋に戻られてくださいね』
「うん」
針仕事を再開する茉鈴。
ほんとに手際がいい。針を刺し、するすると糸を引いて解れが直っていく。
「上手だね。茉鈴、縫製係としても仕事していけるよ」
『ありがとうございます。母に仕込まれましたので』
茉鈴が照れたように笑った。
料理が上手な茉鈴。それと瞳の色で彼女を覚えていたけれど、お裁縫が上手という情報も加わった。僕はなかなか物を覚えていられないから。目の前の相手が誰かをすぐに思い出すには、特徴や情報が多いほうがいい。
それにしても。茉鈴といる時のこの不思議な安心感は何だろう。一緒にいるだけでこんなに安心するなんて。他の隠には感じたことのない感覚。このまま近くにいたいとさえ思う。
『…時透様?』
姿勢よく座った茉鈴の背中に自分の背中を預けてもたれ掛かる。
「少しの間、こうさせて……」
『いいですよ』
自分は今、寝間着姿だから。薄い布地越しに茉鈴の体温が伝わってくる。
「……やっぱりこっちがいいや…」
向きを変え、茉鈴の背中にぎゅっとくっつく。
「邪魔?」
『いいえ。お好きなようになさってください』
優しい声。ああ、やっぱり安心する。
とくん、とくん……。
茉鈴の規則正しい心音が僕の身体にも響いてくる。それとさっき彼女が飲んでいた珈琲の香りが鼻を擽る。
瞼が重たくなっていく。でも眠りたくないな。起きたらまた色々と忘れちゃうんだろうな。やだな……。
「…まりん……」
『はい』
「………。何でもない……」
“ずっとここにいてね”、“独りにしないでね”……そんな言葉を、何となく口にせず呑み込んだ。
『時透様、大丈夫ですよ。私はずっと時透様の傍にいます』
「…!……うん…」
僕の心を見透かしたかのように、茉鈴が口にした言葉。
僕は茉鈴の背中に額を押し当て、身体にまわした腕に少しだけ力を込めて、彼女の体温を感じながらゆっくりと意識を手放した。
続く
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すごくおもしろいです! 続き待ってます!