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「…うん、わかったよ…」
でもそんなこと言えるはずも無く、私は平然とした声でうなづくしかなかった。
滞在に必要な着替えや道具を宿泊先に送る手筈や、留守番に必要な費用の都合の仕方を確認して、美保ちゃんとの電話は五分ほどで終わった。
あとはまた、蒼との息詰まる時間が待っていた。
「な、だから言ったろ。おばさんは絶対戻らない、って」
気づけば、背後に蒼が立っていた。
前は壁、後ろは蒼。
逃げ場はない…。
「でも、おばさんそんなに心配してなかったろ。俺がいるからって。さっき俺に電話くれた時も言ってたぞ。『蓮のことよろしくね』って」
「…ムカつく…」
「は?」
私は込み上げる怒りにまかせて振り向いた。
「卑怯だよ!そうやって私だけじゃなくて美保ちゃんまでだまして…最低!!」
「卑怯?こんなことくらいで最低扱い?」
蒼はたいしてこたえた様子もなく、余裕の微笑を浮かべた。
「俺にすれば、こんなに長い間俺をないがしろにしたおまえの方が最低だと思うんだけど」
「……だって…!」
まさか蒼が私を好きだったなんて…。
「ほんとに気づかなかったのかよ、俺の気持ち」
うなだれるしかない。
どうして気づかなかったんだろう。
近過ぎて、それが当たり前すぎて、想像することもなかった…。
「じゃあ、おまえのその無自覚のせいで、俺がどんなにしんどい思いしてきたかも知らないんだな。あーあ、最低。なんでこんな鈍感女、好きになっちまったんだろ」
「なによ…勝手に好きになったのはそっちじゃない」
「へぇ、そういうこと言うんだ」
鋭い目が光る。
長い腕が壁に手をついて、私を閉じ込める…。
「いいのかよそんなこと言って。俺の親もおまえの親も数日は帰ってこない。俺とおまえだけの生活が始まるんだ。これがどういう意味か、さすがにおまえでも解かるだろ」
「……」
「たった今から、『ただの幼なじみ』は解消。俺、オオカミになっちゃうよ?おまえ、拒みきれる?」
今にも食いつきそうにニッと口端だけ上げたその表情は、自信と余裕に満ちていて…。
「なによ…エラそうに言って…。生意気よ…!」
「生意気?」
凍りついた表情に、寒気を覚えた。
「おまえさ、いつもそう言うけど、いったいどういう立場のつもりだよ。俺におまえより劣ってるとこってある?いつまでも、小さい頃の気分でいるのはやめろ」
「……」
「俺はもう『へなちょこ』じゃねーよ。おまえなんか…どうにもできるんだ。片手でもな」
引き寄せられて、言われた通りに、片手で私の両手は拘束されてしまう。
「は、離してよ…!」
「じゃあ、力づくで逃げてみろ。五秒の数えてやるから、その間に逃げてみろよ」
「ふざけ…!」
「できなかった、キスする」
「…!」
「キスして、そのまま抱きかかえてソファに行って…どうしてやろうかな…。…5」
「ま…まって…」
急に…いきなりすぎる…。
「…4」
逃げなきゃ…。
でも、手がびくともしない。
「…3」
それどころか、壁に押さえ付けられてしまって…あごをつかまれて…
「…2」
背けようとしても、痛いくらいつかまれて…。
「やぁ…っ」
「…1。あーあ…」
五秒たっても、唇は自由だった。
代わりに落ちてきたのは、蒼の低い声。
「立場逆転、だな。…今はおまえの方が、泣き虫」
ぽろぽろ…
私は涙をこぼしていた。
怖くって…
あまりの力の違いが、
蒼の変貌が、
ただ怖くて…。
「はい、今日はここまでー」
冗談めいた口調で言うと、蒼はゆっくりと離れていった。
「可哀相だから、今日はこの辺で勘弁しといてやるよ」
壁に寄しかかったまま、私は泣きじゃくるしかなかった。
どうして、
どうして涙が止まらないの…悔しい
悔しい…!
「解かっただろ?こういうことだよ。もう『へなちょこ蒼ちゃん』は、いねぇんだよ」
「な、によ…!」
「……」
「なによ…!蒼のくせに!」
バンッ!
瞬間、蒼がものすごい力で壁を叩いた。
「二度と俺を見下すな」
「――-…」
「言っただろ。もう俺は昔の俺じゃないんだ。ちゃんと、今の『俺』を見ろよ…」
「……」
「…俺は、おまえに認められるために努力してきたんだ。その俺に、ちゃんと報いることしろよ…!俺が受け入れられないなら、ちゃんと振れ。『幼なじみだから』って理由以外でな」
それまでは俺、全力でおまえを落としにいくから。
そう言い残すと、蒼はリビングを出て行った。
ふざけんな…ばか…!
って罵倒してやりたかったけど、取り残された私の口から出てくるのは、嗚咽だけだった。
ショックだった。
なにもかもが壊れてしまった。
変わってしまったから。
ううん、違う…。
蒼はもうずっと前から変わっていたんだ。
私がいつまでも気づかなかっただけ…。
でも、こんなの…あんまりだよ…。
だって蒼は家族だよ…。
『蓮ちゃん』
って、いつも私のそばをついて離れなかった、可愛い幼なじみなのに…。
私は、すがるようにリビングの写真立てを見た。
けど、大好きだった小さい頃の蒼が写ったあの写真は、伏せられていた…。