第1章「偽りの好意」その3
(男相手に何やってんだこいつ――!)
修介は、超絶イケメンの王子様に手を握られた状態から動けないでいた。
「――それじゃ、打ち合わせはじめよっか」
天使の――姫乃の声で、修介は我に返った。同時に香島の手が離れる。
「そうしようか。課題発表まであまり余裕がないしね」
「つーか、課題発表っていつやんだっけ?」
「発表の日程は正確には決まっていないが、大体一ヶ月後……六月上旬くらいだろうな」
「なーんだ、チョー余裕じゃん」
相瀬が答えると、一茶が腕を頭の後ろに回して笑う。
「でも、ないと思うけど。今から脚本決めて読み込みするんだし。俺脚本覚えるの苦手なんだよなー」
直木の声を聞きながら、みんな部屋の隅に並べてあった椅子を持って中央に集まる。修介も慌てて自分が座っていた椅子を持って移動した。
「脚本家さんはこっち!」
「お、おう」
と笑顔の姫乃に手招きされる。嬉しさで飛び上がりそうな気持ちを押さえつけ、修介は姫乃の隣に椅子を置いた。
部屋の中央に椅子を並べ、円形になる。
姫乃から始まって右側へ修介、直木、一茶、森田、坂本、相瀬、香島の隣に姫乃が座る形だ。
「まず、脚本をどうするか決めたいと思います!」
自分でメンバーを集めた自負からなのか、姫乃は張り切っている。
「わたしは是非、当て書きをしてもらいたいと思ってるんだけど!」
「はぁ? 時間ないのになんでわざわざそんな面倒なことしなくちゃいけないのぉ?」
「確かに、早く脚本読み始められるほうが助かるんだけど」
坂本が不満を隠しもしないに対し、直木は申し訳なさそうだ。
しかし姫乃は怯まなかった。
「でも、せっかくこのメンバーが集まったんだし、その人らしい演技で挑みたいなって」
「面白そうだけど、権堂くんにもかなり無理を強いることになるんじゃないかな?」
突然香島から話を振られ、「へっ」と間抜けな声が出る修介。
「稽古も含めて一ヶ月と少しだし、脚本もかなり早く上げないといけなくなるよ」
「それはまぁ、問題ないかと。ネタのストックはあるし、キャラさえ決めればあとはそのキャラに合わせて調整すればいいので……」
そんな修介の言葉に、香島は目を丸くした。
「すごいなぁ。僕は演じるばっかりで、お話を作るなんてしたことないから……尊敬するよ」
「権堂くんの脚本面白いんだよー。自由度が高いものから、細かい意図とか演出がハッキリしてるものまであって」
爽やかで嫌味のない香島の笑顔と、誇らしげな姫乃の笑顔。修介は思わず顔をそらした。
なぜこんなべた褒めなのか。しかも、なぜ初対面の香島にまで感心されるのか。
(まさか、姫乃に同調して好感度を上げるつもりじゃ……!)
そう思い、修介はキッと香島を睨みつけた。小心者なので実際には顔を見ただけだが。
そんな修介に対し、香島はにこっと笑みを返した。
(――なんて小さい男なんだ俺は……!)
修介は敗北感を味わうのだった。
「ふーん。でも今まで権堂くんの名前聞いたことないけどなぁ。成績いいなら、聞いたことありそうなのにぃ」
勝ち誇った笑みで、坂本が水を差す。彼女の言葉に、姫乃はきょとんとしていた。
「そうなんだ? わたし成績とかあまり気にしたことないから……成績いい人のことってよくわからないんだけど」
「そもそも綾咲が成績で人集めてたら、俺呼ばれてないと思うけど……」
「オレもオレも。かなりムラあっから、課題発表でトチりまくりでさー」
直木が苦笑し、一茶が笑い飛ばす。予想外の反応だったのか、坂本の表情がうろたえているように見えた。目も泳いでいる。
「みんな、それぞれ理由があって呼ばれてるんだと思うんだ。坂本さんもそうだろう?」
「そ、そうだねぇ」
香島に笑みを返す坂本。その顔は引きつって見えた。
「……それで、どうするんだ?」
相瀬がため息まじりに軌道修正した。彼の視線が自分に向いていることに修介は気づく。
「あ、当て書きには興味あるんですけど、みんな厳しいなら、前に作った脚本持ってきますよ」
できれば、姫乃の意向を尊重したい。だがそのせいで進行が遅れたら、結果的に彼女の立場を悪くするかもしれない。手伝う者として、それは避けたかった。
「当て書きやんねぇの? 面白そうじゃん」
「興味はあるけどさー。できるまで時間かかるのはちょっとなあ」
「そうだよぉ、早く練習入りたいしぃ」
「――じゃあ、こういうのはどうかな?」
意見が飛び交う中、香島が流れを切った。ピタリと声が止まる。
「今から、練習前の準備をしよう」
「なんだよ、いきなり」
首を傾げる直木に対し、香島はピッと指を立てて答えた。
「準備の様子を、彼に見てもらうんだよ」
その回答で、姫乃はすべてを察したらしい。ぽんっと手を打った。
「それなら確かに、みんなの個性を見てもらいやすいね!」
「準備って、ストレッチとか発声練習?」
言いながら、イマイチ修介にはピンとこない。姫乃が付け加えた。
「当たった先生にもよるんだけどね、ただストレッチとか発声練習をするだけじゃなくて、発想やイメージを広げるためにゲームやったりすることもあるんだよー」
「僕たちがそれをやってる様子を見てもらって、その上で当て書きができそうかどうかを判断してもらうんだよ。初顔合わせだし、親交も深められていいかなって思うんだけど」
姫乃の説明に、香島がさらに付け加える。
「まぁいつもやってることやるだけだし、俺は構わないけど」
「俺も特に異存はない」
「じゃあオレあれやりてぇなぁ! 音を動きで表現して、グループに分かれるやつ!」
特に反論も異議もなく、あれよあれよと話が進んでいく。
「ありがと、香島くん」
「お気になさらず、お姫様」
そしてその立役者は、修介の憧れのお姫様との距離を縮めるのであった。
意思とは関係なく、羨望の眼差しを向けていた修介と、香島の視線がふと交わる。
「権堂くんも、無理しないようにね。時間も限られているから、イメージが掴めないようだったら、既存の脚本にしよう」
柔らかな笑顔が、惜しげもなく修介に晒される。香島は男女関係なく、こんな態度らしい。
「……すごいなぁ」
「え?」
「あの微妙な空気を変えちゃったし、俺なんかに親切だし」
修介の口から勝手に滑り出たのは、感心というよりも、どこか卑屈な気持ちからの言葉だ。
軽く聞き流されるだろう――修介はそう思っていた。
「そんなこと、ないよ」
香島の言葉が、どこか修介には遠くに聞こえた。
どこか、憂いを帯びた表情を浮かべているような――
「じゃあ、せっかく出たんだし、一茶くんが出してくれたのをやろう!」
姫乃の言葉で、意識が会話に戻る。
「音源はどうするんだ?」
「音じゃなくてもできるよね? じゃあ権堂くんにお題を出してもらおうか」
相瀬の問いに答えながら、香島が修介に声をかける。
「え、俺!?」
「何か言ってみてくれるかな。それが連想できる動きをみんなでするから」
「言ってみてって……」
戸惑う修介を尻目に、俳優の卵たちは続々と椅子を端に寄せ始める。慌てて修介も倣う。
「ほら、理恵」
椅子から立ち上がらない坂本を、宥めすかす森田。坂本は、頬を膨らませながら立ち上がった。
椅子を端に寄せて座りながら、部屋の中央に集まる少年少女たちを見やる修介。
今から始まるものを見て、当て書きができるかできないか判断しよう。香島はそう言っていた。
だが修介は、すでにうずうずしていた。
今から見るものも楽しみだが、すでに頭の中には――彼らに相応しい役ができあがりつつあったのだ。
「それじゃあ……」
自分に注目するに気づいて、修介は言われた通り「お題」を口にした――。
初顔合わせが済んで数日後、五月のゴールデンウィーク中に、修介の脚本は完成した。結局、当て書きの新作を作ったのである。
ゴールデンウィークの最終日に脚本を配布。全寮制の流星堂学園では、土日祝日関係なく、生徒同士が会するには困らない。
脚本の感想は上々で、出来上がりも早かったことから特に不満が出ることはなかった。
そして、ゴールデンウィークが明けてさらに数日。
再び、修介たちのグループは多目的棟の一室に集まっていた。
今日彼らがいるのは、一〇三号室。前回とは違い、雑多に物が置かれており、「スタッフコース 関係者以外触れないこと!」と大きく貼り紙がされていた。
演劇・映画学科には、照明や音響、大道具や小道具を作る美術系の勉強をするスタッフコースがある。この部屋には、スタッフコースの生徒が作った大道具やその材料が一時的に置かれているようだ。
角材やベニヤ板、ハンパに骨組みだけできているものまで様々あり、室内の一画を占拠していた。
場所を広く使うため、修介たちはスタッフコースの貼り紙の前に各々の荷物をまとめ、その反対の壁際に椅子を並べて座っていた。
現在、部屋の中央には二人の男女が立っている。
一人は、ジャージ姿の姫乃。
その向かいには、ジャージ姿の香島が立っていた。
「―― 衛(まもる)」
姫乃がそう呼ぶと、ゆっくり香島に近づいた。香島が演じる男――衛はたじろぎ、距離を取ろうとするが、姫乃の威圧的な態度がそれを許さない。
「――許さないから。この私の心を……魂をも虜にしておいて、そんな煮え切らない態度を取るなんて」
「ごめん……本当に、ごめん。亜由美(あゆみ)さんのことは好きだけど……やっぱり僕にはもったいなさすぎる」
申し訳なさそうに声を絞り出す衛に、姫乃――亜由美は微笑んだ。
「だからそんなの許さないって言っているでしょう? 私に狙われて落ちなかった男はいないんだから」
優しい微笑みが、徐々に自信たっぷりな肉食獣のような笑みに変わっていく。
そんな笑顔を見つめる衛。威圧によって縫い止められているように見えるが、亜由美の瞳に惹かれ、恍惚としているようにも見えた。
衛の様子に、亜由美は満足そうに目を細める。
「落とすわよ――全力で」
室内の壁際で立ち稽古を見つめていた修介は、唾を飲み込んだ。
妖艶な微笑みに、狂気を孕んだ瞳。小柄で幼く、普段の元気な雰囲気がどこかに消えてしまっていた。
亜由美を演じる――綾咲姫乃。修介の憧れの、女優の卵。
「……ゴンゴン」
「え?」
「いや、シーン終わってるっしょ。ちゃんとシーンの始まりと終わりは合図するってことになってたじゃん」
「あ、ごめん!」
一茶に言われ、慌てて修介はパンッ、と手を叩いた。同時に、中央で固まっていた二人の役者が「ふー」と息をついた。
一人は、修介が目を奪われていた亜由美役――姫乃。
そしてもう一人は――今回の脚本の主役・衛を務める、香島理央だった。
脚本の内容はこうだ。
舞台は現代日本。優柔不断で頼りない男・衛が、色んな女性を振り回し、女性たちの関係者をも巻き込む。
最初は衛自身を争う女たちの争いだったのが、仲の良かった男女それぞれが争うようになる。すべて自分のせいだと悟った衛は、彼らから離れることで争いを止めた。残された男女は、衛の想いを察し、それぞれの仲を修復するのだった。
「――はーっ! 悪女たっのしー!」
演技が終わった途端、姫乃からさっきまでの表情が消し飛んだ。キラキラ瞳を輝かせ、噛み締めている。
「わたし、今まで良い子ちゃんの役しか回してもらえなかったから、今回亜由美さんやらせてもらえてすっごい嬉しい! ありがとう、権堂くん!」
姫乃は跳ねるように修介の隣の椅子に戻ってきた。
「べつに、面白そうだと思っただけだから」
この言葉は本心だ。
姫乃の言う通り、普通なら元気で明るい役や、子どもっぽい役をやらせるほうが映えるだろう。だが色んな一面を引き出せたほうが面白いし、本人の新発見に繋がる。
何より――ようするに面白そうだったのだ。
子どもっぽいと思われている姫乃が、男を虜にし続けた女の役をやったらどうなるのか。
まったく合わないかも、という不安はなかった。それはだって――修介が信じる、姫乃だから。
そんなことを思っていると。
「綾咲さんがあんな演技できるなんて思わなかったよ。ほんと面白い人選だね」
姫乃のさらに隣の椅子に、香島が腰掛ける。同時に、休憩時間のような空気になり始めた。
「今回の脚本(ほん)、マジありがたいわー。オレ割と普段のままでヨユーだし」
「確かに、一茶に高度な役を割り当てなかったのは正解だな」
「俺も、セリフ多くない役でよかったー」
相瀬が頷き、直木はホッとした様子で笑う。
「それにしてもさー、姫ちゃんの配役もそうだけど、ゆみりんの配役も意外すぎっしょ。あんな男っぽい女のキャラ想像できなかったしー」
「うう、まだちょっと恥ずかしい……」
ゆったりした休憩モードに入る一同に、修介は和やかな気分になった。
だが。
「――でもぉ、私は正直、綾咲さんの役ってミスマッチだと思うなぁ」
明るいが、どこか粘着質を含んだ声で、和やかな空気が止まった。
森田の隣に座る坂本だ。にこやかなのに、有無を言わせない威圧感が篭っている。
「やっぱり綾咲さんには、私の役がちょうどいいと思うんだぁ」
坂本の役は、純粋無垢で夢見る乙女である怜奈(れな)という役だ。修介が知る限り、確かに姫乃はこの手の役をやることが多かった。
「怜奈ってキャラ……やりづらいところとかありました?」
「えー、べつにぃ。そういうわけじゃないんだけどさぁ」
と、明るい声で言ってはいるが、ちらりと修介を見る坂本の目つきは鋭かった。
その瞳には「余計なこと言うんじゃない黙ってろ」という圧力が込められている気がして、修介は押し黙る。
「ただねぇ、こっちの役を綾咲さんがやったほうがいいと思うってだけでさぁ。だから交代しようよぉ。ね?」
坂本は言いながら席を立つと、姫乃の前まで止まる。
「悪女とか、私超得意だし? そっちのほうがゼッタイグループ評価も上がるからさぁ」
修介はひやひやしながら、姫乃に目を向ける。坂本を見る彼女からは、表情が読み取れなかった。
「いいでしょぉ? いいよねぇ? はい決定!」
「ううん、それはできないよ。ごめんね」
姫乃はぴしゃりと切り捨てた。坂本は一瞬面食らうが、すぐに眉間に皺を寄せる。
「はぁ? なんでぇ?」
「だって、せっかく権堂くんが、わたしがやったら面白いと思う役を当ててくれたのに、役者が勝手に変えるなんてできないよ」
「はっ、ナニソレ。べつに仕事でやってるんじゃないし、禁止されてるわけでもないじゃん。たかが学校の課題で何そこまで熱くなっちゃってんのぉ?」
初めて姫乃の表情に怒りが滲む。だが坂本と違い、それを闇雲に吐き出すことはしない。
姫乃が何か言う代わりに、坂本は修介を見た。
「じゃあさ、脚本家サンに許可取ればいいのね? いいでしょ、脚本家さん。ちょこっと役を交換するくらいさぁ」
「えっ」
さっきはあっさり切り捨てられたため、話を振られるとは思わなかった修介は油断した。間抜けな声しか出せず戸惑っているうちに、坂本は修介の目の前に移動してくる。
それを追うように森田が隣に並んだ。
「あんまりわがまま言っちゃダメだってば」
森田が坂本の腕を引き、耳元に口を寄せた。
「今の役だって王子との絡みあるでしょ」
「でも、一番多いのって綾咲の役だもん。私あっちがいい」
「同じグループになれただけでも良かったと思いなよ……」
聞こえないようにしていたのだろうが、目の前の修介にはバッチリ聞こえていた。
どうやら坂本の目当ては香島らしい。彼が本当に王子と呼ばれていることは初めて知ったが、他にその言葉が当てはまる男子生徒が思い当たらない。
「――坂本さん」
そんなことを修介が思っていると、いつの間にか香島が坂本と森田の横に立っていた。
「僕は、今の役を坂本さんにやってもらいたいな」
にこ、と笑みを浮かべる香島。それを見て、隠し切れない気まずさと共に坂本も笑う。
「でもぉ、こういう役よりも、綾咲さんの役のほうが私うまくできるしぃ」
「そうかな? 坂本さん、こういう清楚系の役もうまくできると思うけど」
「ええー、そうかなぁ。そこまで言うならぁ……」
目線を合わせて、まっすぐ坂本の目を見つめる香島。すると坂本の頬に赤みが差した。
「やっぱこうちゃんはイケメンだねぇ!」
「女に甘いとも言うがな」
「そうか? 香島って女だけ贔屓してるってイメージあんまりないけど」
「……訂正しよう。他人に甘い、だな」
「あいちゃんカンジ悪ぃなー」
成り行きを見守っていた男子たちの話を聞いていると、修介は香島がちら、と姫乃のほうを見たのに気づいた。
一瞬、香島の片目がパチンと閉じた。瞬間、修介は弾かれたように、姫乃へ視線を向ける。
バッチリ彼女は香島のサインに気づいていた。決して声には出さず、心からの感謝をのせたかのうように、姫乃は微笑む。
どんどん二人の距離が縮まっていく――修介は内に秘めた焦燥に苦しめられるのだった。
すると、不意にスライド扉が開いた。
「――なんだ、休憩中か?」
姿を現したのは――俳優コース担当の教師、白石だった。
椅子に座っていた俳優コースの生徒たちは立ち上がり「お疲れ様です!」と腹からの大きな声で、挨拶していた。修介も遅れて「お、お疲れ様です」と頭を下げる。
「練習してるところをこっそり見ようと思ってたのにな」
残念そうな笑顔ですたすたと入ってくる白石。
「てか、なんでわざわざイッシー見に来たんスか?」
「俺が直接脚本協力頼んだからさ。これでも心配だったんだぞ?」
言いながら、白石が修介を見る。顔から「うまくやってるか?」という問いが伝わってきた。
「みんな面白くて、脚本の作りがいがありました」
「ああ、確か当て書きやったんだよな」
「そうなんですよ! わたし、今回悪女やるんですよ!」
姫乃が嬉しそうに報告すると「ほー」と感心した白石は、それぞれがどんな役をやるのか、脚本はどんなものなのかを聞いてきた。
休憩時間延長。そんな兆しが見え始めた頃。
突然、物が倒れる大きな音が響いた。
「え、何ぃ?」
「すっげぇ音!」
坂本と直木が声を上げると、一同の視線は音の主に集まる。
部屋の端――修介たちの荷物や、小道具や作りかけの大道具が集まった場所。そこに、香島が立っていた。
その足元には、角材やベニヤ板が倒れている。立てかけてあったものが倒れたのだろう。
「だいじょうぶ!?」
最初に走り寄ったのは姫乃だった。続けて修介たちも小走りで近づいていく。
「大きな音立ててごめん。ちょっと飲み物取ろうとしたら、倒れてきちゃってさ」
香島が姫乃に笑いかけると、彼女を押しのけて相瀬が香島の肩を掴んだ。
「怪我はないか!?」
「平気だよ、ちょっとかすっただけだし」
「おい、血が出てるぞ」
「え、うそ」
「顔だ。何やってんだよおまえは」
言いながら、相瀬は手で乱暴に香島の頬を拭う。思ったより深いのか、香島の頬に赤い一の字を作った。
「僕より、倒れたもの大丈夫かな」
「平気みたいだぜ。割れたりひび入ったりとかしてないから」
香島の声に反応した直木が、ベニヤ板の様子を確認する。
「よかった」
「無機物より自分の心配をしろ」
「頬切ったくらいで大げさだなぁあいちゃん。おかん?」
「うるさい」
「でも、大きな傷とかにならないでよかったね、香島くん」
「心配かけてごめんね、お姫様に王子様方」
香島が軽口を飛ばしたおかげで、そう殺伐とした空気にならずに済んだようだ。大きな怪我ではなかったことが大きいだろう。見守っていた修介もほっと胸を撫で下ろした。
「気をつけろよー。怪我もそうだが、ヘタに大道具壊すと揉めるからな」
「つーかもう少し安全な片付け方してほしいっスよー。片付け雑すぎじゃん」
白石も近づき、他の物が壊れていないかチェックしている。
「香島くーん、はいこれ、絆創膏だよぉ!」
「ありがとう、坂本さん」
「貼ってあげるよぉ」
最後にやってきた坂本は、可愛いウサギの絵の描いてある絆創膏を準備していた。
「ウサギの絆創膏、かわいいねー」
「でしょぉ?」
姫乃の言葉に笑って応える坂本。さっきまでの険悪さはないが、どこか勝ち誇っているように見える。
「心配かけてごめんね。じゃあ、そろそろ練習再開しようか」
頬にウサギさんの絆創膏をつけた香島の言葉を受けて、皆は反対側に戻り、それぞれの椅子に座る。
「次誰のシーンだっけ? ゴンゴン」
「あ、えっと……シーン一三の、妹の様子がおかしくなって心配な兄のシーンだから……相瀬くんと坂本さんだね」
「あいちゃん、りっちゃん、がんばー!」
「……静かにしてろ」
「よぉし、がんばるぞぉ」
一茶の応援と共に、それぞれが中央に立つ。
「それじゃ、シーン一三。よーい……」
ぱんっ! 修介が手を叩くと、演技が始まった。
――不愉快だ。
俳優の卵の一人は、そう思っていた。
練習が終わり、自分の部屋に戻ることになった。一人になりたくてグループメンバーたちを振り切り、しばらく時間を潰した。彼らが帰ったのを見計らって、多目的棟の靴箱にやってくる。
なんであんな、ヘラヘラ笑っているあいつばかりが大事にされるのか。
あいつさえいなくなれば――いや、いなくなるだけでは足りない。自分をこんなにも不快にした報いを与えなければ。
だが一体どうすればいい。俳優を目指している以外は普通の学生である自分に、嫌疑がかからないようにする方法など――思いつかない。
苛立ちから、俳優の卵は乱雑に靴箱の扉を開けた。
がしゃん、と派手な音と共に、何かが落ちる。俳優の卵の視界に白いものが映った。
床に落ちているのは、紙だ。四つ折りにされた何の変哲もない紙を拾い、何の気なしに開く。
【あなたの願い、叶えます。どんな願いの手助けも致します。もしも願いを叶え、幸せになることを望むのなら、この場所へ足を運んでください】
「……バカバカしい」
じっくり眺めた後、小さく呟いて握り潰した。静かな空間に、ぐしゃっという音が響く。
紙くずとなったものを捨てようと辺りを見回すが、ゴミ箱はない。
仕方なく、紙くずをジャージのポケットに突っ込んだ。
だが――この紙くずが、ゴミ箱に捨てられることはなかった。
第1章「偽りの好意」その4へつづく。
コメント
1件