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「ねえねえ! 勇信さん!」
魚井玲奈が軽快なハイヒールの音を響かせながら、勇信の隣にくっついて歩いた。
「授業は終わったのか?」
「ううん、今日はさぼっちゃおかなって思って」
「卒業をあきらめるつもりか」
「私の成績知ってるくせに、よくそんなことが言えますね」
天は魚井玲奈に多くのものを与えた。
上位圏にとどまるのも簡単ではない名門大学で、彼女は目立って優秀な学生だった。さらには学業だけでなくスポーツにも長け、エレキギターだって弾くこともできる。
きれいな顔立ちと抜群のプロポーションに加え、楽天的な性格まで完備しているのだ。
彼女のいるキャンパスは、いつも春の陽気が漂うように華やかだった。
性別を超えて、多くの学生が魚井玲奈のそばにいたいと望んだ。しかし常に彼女のそばにいる留学生の正体を知っては、誰もが敗北を認めざるを得なかった。
吾妻勇信。
日本、吾妻グループ会長の次男。
財閥御曹司は、どの国に行っても財閥御曹司以外の何ものでもない。
「ところで勇信さん。今日が何の日だか知ってますか?」
「魚井玲奈の誕生日」
「えっ、何で知ってるんですか!?」
「君が授業をサボるのに、他の理由があるのか?」
「うーん、なかなか鋭いですね」
「鋭いんじゃなくて、統計学だ。去年も同じように授業をサボって俺に近づいてきた。誕生日という特赦を利用して、たらふくうまいものを食べようと算段したんだろ」
「私の短所をうまく指摘してくれましたね。私、応用力に若干の難ありと自覚してますんで」
「もう高校生じゃないんだから、暗記式の学習はやめるべきだ。社会生活で重要なのは、暗記じゃなく応用だ。でなければ新しくて魅力的な商品は作れないし売れない」
「はい、肝に銘じます。でも魅力的な商品は勇信さんが作って売ってください。私はただそばにいて手伝うだけでいいので」
魚井玲奈の言葉に、勇信は驚いて足をとめた。
「今の冗談だろ? まさか本気か?」
魚井玲奈が卒業後、吾妻グループに入社することを勇信は望んでいた。しかし生命工学を専攻しているため、卒業後は研究の道を選ぶだろうと思っていた。
「冗談なのか本気なのかは、お酒を飲んでみないとわかりません。私が授業をサボった理由がもうバレてるからには、堂々と申請しますね。今日誕生日なので、高いご飯をおごってください」
「断れないようにうまく応用したな」
「もちろんです。人は日々進歩しなければならないので。だから勇信さんも、去年より進歩した良いお店を選んでくださいね」
「俺についてまだ何もわかってないな。レストランなんてものは予約済みだ。顧客動向を事前に把握することは、経営学の必須条件だからな」
キャー!
勇信さんて最高!
魚井玲奈の歓喜の声がキャンパスに響き渡った。
*
吾妻勇信と魚井玲奈は、ボストンにある最高級イタリアンレストランを訪れた。
最高の味を誇るレストランがいつもそうであるように、店内は会話よりは食事を楽しむ客で溢れている。
数えて5杯目のワインが空いた。
魚井玲奈が目を閉じて、天を見上げていた。少し酔っているようだ。
勇信は彼女の白い花瓶のような首をちらりと見てから自らもワインを飲んだ。
「もうすぐ勇信さん日本に帰っちゃいますね。そうなるとまた貴族と平民の関係に戻るんですね。私はただ平凡に暮らし、勇信さんは国に影響力を及ぼす地位に就くんですから」
「まあ、俺はそうだとしても。玲奈だってまったく平凡じゃないさ」
「何言ってるんですか。死んでも越えられない壁ってものがあるんですよ」
「まさか羨ましいのか?」
「いえ、かわいそうだと思って」
「かわいそう? 本気か?」
「私みたいな平凡な人間には、選択肢っていう人生の楽しみがあるんですよ。でも勇信さんにはそれがないじゃないですか。卒業後に進む道は、生まれた時点で決まってるんですから。他の道を選ぶことを、周りが許してくれないでしょ?」
「違うな。俺にだって選択肢はある。吾妻グループで働きたくなければ、入社を拒否すればいい。画家とか音楽家の道に進みたければそうするべきじゃないか? 財閥だからって必ず会社を継がなければならないという法はない」
「じゃ、芸術分野でなければ? 一般業種ならその選択が可能ですか」
「不可能だ」
「ほらね。勇信さん経営学を専攻してるし、芸術にはあまり興味がないじゃないですか。じゃやっぱり吾妻グループ以外のどの会社にも入れませんよ。そして吾妻グループの所属になった瞬間から、希望する職種ではなく経営者の道しか歩けませんから」
「そうした極論を言うなら、誰だって同じじゃないか。好きな職に就いて自由な人生を謳歌できる人間なんてほんの一握りだと思うけどな」
「自由……。実は私にも自由なんてものはありません」
「何だ? 言うだけ言っておいて、結論は同じか?」
「いえ、厳密に言えば、自由はあって自由はないって状況ですね」
「どういうことだ?」
勇信が尋ねると、魚井玲奈はそれ以上話を続けなかった。グラスに残ったワインを飲み、冷めたオッソブーコを口にした。
勇信も魚井玲奈に合わせてオッソブーコを口に入れたが、冷えた油が不快だったため、ワインで流し込んだ。
しばらくの間沈黙が流れ、魚井玲奈はずっと料理を見つめていた。
それから突然、何かを決心したように勇信を直視した。
「勇信さん」
「どうした?」
「勇信さん……私の自由を縛るつもりはありますか?」
魚井玲奈の頬が赤く染まった。
「どういうことだ?」
勇信は魚井玲奈の言葉がすぐには理解できず、ただ瞬きを繰り返した。
「お客さま。ご注文のワインでございます」
「……はい」
勇信は気が抜けたように答えた。
「勇信さん、どうしたんですか? 私の言ったこと、負担ですか?」
「うん? いったいどういうことだ……。いや、大丈夫だ。負担にはならない。大丈夫」
「今大丈夫って言いました?」
「ああ、大丈夫だ。縛ろうじゃないか」
「えっ、本当ですか!? じゃ、飲みましょう。これ高いワインて知ってますけど、好き放題飲みますよ。だって財閥さんがおごってくれるんですから」
「……そうだな」
目の前の状況がうまく理解できなかった。
それでも一度「大丈夫」だと言ったからには、もう後戻りできない。
幼い頃から自分の一言に、多くの人が左右されるのを見て育ってきた。大人になってからは、何気なく発した一言が人を困らせることを知った。だからこそ勇信は、一度口にした言葉は簡単には撤回しない。
「ところで。大丈夫という言葉が、そこまで喜ばしいものなのか」
話の核がわかっていないだけに、少なくとも質問はしておかなければならなかった。
「それは嬉しいに決まってますよ。勇信さんのそばにいる権利を得たわけですから」
魚井玲奈は心から喜び、笑った。
その反応に勇信はより深い迷路へと迷い込んだ気がした。
……権利?
権利って何だ?
「権利という言葉は、何だか形式的すぎやしないか? もっと適切な単語があるんじゃないか?」
「いえ、形式ってのはなかなか大切なんです。何でも曖昧に進めて結局失敗する場合がありますから。私、そういうの嫌いです。はっきりとしたほうがいいので」
失敗?
何が進んでいて、何を失敗だと言っている?
「はっきりとするほうが俺だっていいに決まってる。かなりはっきりとしておきたい」
「やっぱりね! こういったところで私と勇信さんって相性がいいんですよね。そう思いませんか?」
相性?
「そうなのか? 俺にはわからないな。相性という非科学的なものについては」
「あくまで感覚ですから、よくわからなくてもかまいません。ただ少なくとも私はそう感じてるってことです」
「俺は……。俺はこれからどうすればいい?」
「まずは撫でてくれませんか」
「撫でる? 頭をか?」
勇信は立ちあがり、魚井玲奈の席に近づいた。
すりすりすり。
「なんか元気が出ますね。実はすごく緊張したんですよ。誕生日っていう恩赦を利用して、勇気を出して告白したんですが、よい結果が出て嬉しく思います」
告白?
告白とは……。あの告白か?
「そうだな。これは俺にとっても喜ばしいことなんだな?」
「もちろんです。私はこれからも勇信さんにもっと喜んでもらうために、最善を尽くします」
「それはありがたいが、最善を尽くさなければならない類のものなのか? 少し肩の力を抜いて楽にしたほうがいいんじゃないのか」
「時間が経てば楽になるかもしれません。でもはじめは熱いほうがいいじゃないですか」
熱いとは何だ?
「まあ……それも悪くないが」
話が一向に理解できないまま、時間だけが過ぎていく。
Wow!
突然キッチンの方から歓声が上がった。
サプライズプレゼントとして用意しておいた特大ケーキが、ふたりの前に現れた。
「これってまさか……」
「人の心をつかめるのは、圧倒的な大きさだ」
人の上半身ほどの巨大ケーキだった。
頂上にはアニメでしか見たことのないようなお菓子の家が乗っかっている。
「勇信さん……。感動しました」
「バースデーソングを流さないのが店の方針だそうだから、歌はなしで我慢してくれ」
「色々と気を使ってくれてありがとうございます。このケーキを見たら、心の準備ができました」
……心の準備って何だ!?