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レストランでの食事を終えたふたりは、ボストン川のほとりを歩いた。
夜もそろそろ深まっていて、人々の姿もまばらだった。
――結局さっきのあれは何だったんだ?
問題解決に至らないままレストランを出た勇信は、いまだ混乱していた。
しかし内部で渦巻くある感情が確信へと変わっていた。
その感情は時間とともに徐々に大きくなり、勇信の胸に響く。
俺は……。
俺は、この状況を楽しんでいる。
大学の後輩である魚井玲奈が、特別な場所を占領しはじめていた。
「勇信さん、少し遊覧船を見ていきませんか」
目の前を遊覧船が通りすぎていく。
冷たい川風が、ふたりの体を吹き抜けては消えた。
「寒くないか?」
「少し寒いですね」
勇信はほとんど無意識に、魚井玲奈の肩を抱きよせた。
魚井玲奈も勇信に身を任せて、肩に頭を乗せた。
遊覧船の汽笛が鳴り、船の明かりが水面に光のつぶを作った。
周りには誰ひとりとしていなかった。
まるでふたりだけの舞台が用意されたように、ボストン川の周辺から人が消えていた。
ふたりは同時に川から目を離して見つめ合った。
魚井玲奈がおもむろに目を閉じた。
勇信は上体を曲げて、魚井玲奈に顔を近づけた。
それは準備された台本の中にでも入ったような、特別な関係になるための手順に思えた。
勇信の大きな手が、魚井玲奈の後ろ頭に触れた。
口紅の落ちた、なまめかしい唇が目の前に迫っている。
そのとき、勇信の携帯電話が鳴った。
勇信と魚井玲奈はわずか3センチの距離で目を開けて、すぐに離れた。
ポケットから携帯電話を取り出す。
日本にいる菊田星花からの着信だった。
「もしもし? ああ……そうだな。ああ、わかったよ」
電話を切ると、魚井玲奈がまっすぐに勇信を見ていた。
「あっ、それがだな。日本から人がくることになった」
魚井玲奈が優しい笑みを浮かべてた。
「彼女さんがくるんですね。昔からずっと一緒にいたって方ですよね? 勇信さんはほんとに羨ましいです。わざわざアメリカまできてくれる彼女さんがいて。でも今日は私も勇信さんに劣らない幸せな一日を過ごせました。だって勇信さんそばにいられる権利を得たわけですから」
「あのだな……その権利っていうのは」
「私を吾妻グループに入社させてくれるんですよね? 人生で重要な就職の悩みがなくなったことが、どれほど大きな喜びか、勇信さんにはわからないでしょ? 本当に勇気を出して言ってよかったです。
うーんと……部署はどこがいいかな。ちょっと真剣に悩まないとですね。あ、部署まで斡旋してくださいとは言いませんから、そこは心配しないでください」
魚井玲奈が明るく笑った。
その姿に勇信は心のどこかが痛んだ。
俺は何を望んでいたのだろうか……。
「さあ、そろそろ二次会に行きませんか。せっかくのタダ酒を、もっと堪能しないとですから」
「友だちに会いに行かなくてもいいのか? 玲奈の誕生日なんだから、みんな集まってそうだけど」
「今日は全部断ってきたんです。勇信さんに『就職』の話をしようと思って」
魚井玲奈は就職という言葉を強調して話した。
「そうか……」
ふたりはそれ以上言葉をつなげられず、冷たい風が吹くボストン川沿いを歩いた。
********
「魚井秘書。アメリカで過ごした誕生日を覚えてるかな?」
「え?」
魚井玲奈が驚いたように目を丸めた。
「俺たちふたりで過ごした、魚井秘書の誕生日だ」
魚井玲奈とイタリアンを食べるたびに、あの日の光景が頭に浮かぶ。
自分が増殖しそれぞれの属性が個性を発揮することで、ますます困難が増えている。
そんな現実だったが、絶対に変わらない思い出はちゃんとある。
そのひとつ――。
あの日の風景がまさにそうだ。
「もちろん覚えてます。常務の秘書になるのを、心の中で決めた日ですから」
魚井玲奈ははっきりと言った。
その口調があまりにも断定的であったため、かえって機械的に聞こえてならない。
……あの日の感情を、修正したんだな。
沈思熟考は深く考えることなく、魚井玲奈の気持ちを正確に読みとった。
「今さら聞くのもあれだが、秘書の仕事はどうだ?」
「最近少し大変です」
「理由は?」
「常務がずいぶんと変わられましたので」
「正直に言ってくれ。どこが変わったと感じる?」
沈思熟考はしばらくの沈黙のあとに言った。
「あまりに苦しそうに見えます」
「苦しい? 副会長も帰ってきたじゃないか」
「すべての環境が元通りになればいいのに、と思うことがあります……」
魚井秘書の言葉がうまく理解できなかった。
まるであの日のあのときのように。
沈思熟考と魚井玲奈はそのまま深い沈黙へと入っていった。