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テラーノベルの小説コンテスト 第3回テノコン 2024年7月1日〜9月30日まで
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レストランでの食事を終えたふたりは、ボストン川のほとりを歩いた。

夜もそろそろ深まっていて、人々の姿もまばらだった。

 

――結局さっきのあれは何だったんだ?

 

問題解決に至らないままレストランを出た勇信は、いまだ混乱していた。

しかし内部で渦巻くある感情が確信へと変わっていた。

 

その感情は時間とともに徐々に大きくなり、勇信の胸に響く。

 

俺は……。

俺は、この状況を楽しんでいる。

 

大学の後輩である魚井玲奈が、特別な場所を占領しはじめていた。

 

「勇信さん、少し遊覧船を見ていきませんか」

 

目の前を遊覧船が通りすぎていく。

冷たい川風が、ふたりの体を吹き抜けては消えた。

 

「寒くないか?」

 

「少し寒いですね」

 

勇信はほとんど無意識に、魚井玲奈の肩を抱きよせた。

魚井玲奈も勇信に身を任せて、肩に頭を乗せた。

 

遊覧船の汽笛が鳴り、船の明かりが水面に光のつぶを作った。

周りには誰ひとりとしていなかった。

まるでふたりだけの舞台が用意されたように、ボストン川の周辺から人が消えていた。

 

ふたりは同時に川から目を離して見つめ合った。

 

魚井玲奈がおもむろに目を閉じた。

勇信は上体を曲げて、魚井玲奈に顔を近づけた。

それは準備された台本の中にでも入ったような、特別な関係になるための手順に思えた。

 

勇信の大きな手が、魚井玲奈の後ろ頭に触れた。

口紅の落ちた、なまめかしい唇が目の前に迫っている。

 

そのとき、勇信の携帯電話が鳴った。

 

勇信と魚井玲奈はわずか3センチの距離で目を開けて、すぐに離れた。

 

ポケットから携帯電話を取り出す。

日本にいる菊田星花からの着信だった。

 

「もしもし? ああ……そうだな。ああ、わかったよ」

 

電話を切ると、魚井玲奈がまっすぐに勇信を見ていた。

 

「あっ、それがだな。日本から人がくることになった」

 

魚井玲奈が優しい笑みを浮かべてた。

「彼女さんがくるんですね。昔からずっと一緒にいたって方ですよね? 勇信さんはほんとに羨ましいです。わざわざアメリカまできてくれる彼女さんがいて。でも今日は私も勇信さんに劣らない幸せな一日を過ごせました。だって勇信さんそばにいられる権利を得たわけですから」

 

「あのだな……その権利っていうのは」

 

「私を吾妻グループに入社させてくれるんですよね? 人生で重要な就職の悩みがなくなったことが、どれほど大きな喜びか、勇信さんにはわからないでしょ? 本当に勇気を出して言ってよかったです。

うーんと……部署はどこがいいかな。ちょっと真剣に悩まないとですね。あ、部署まで斡旋してくださいとは言いませんから、そこは心配しないでください」

 

魚井玲奈が明るく笑った。

その姿に勇信は心のどこかが痛んだ。

 

俺は何を望んでいたのだろうか……。

 

「さあ、そろそろ二次会に行きませんか。せっかくのタダ酒を、もっと堪能しないとですから」

 

「友だちに会いに行かなくてもいいのか? 玲奈の誕生日なんだから、みんな集まってそうだけど」

 

「今日は全部断ってきたんです。勇信さんに『就職』の話をしようと思って」

魚井玲奈は就職という言葉を強調して話した。

 

「そうか……」

 

ふたりはそれ以上言葉をつなげられず、冷たい風が吹くボストン川沿いを歩いた。

 

 

********

 

 

「魚井秘書。アメリカで過ごした誕生日を覚えてるかな?」

 

「え?」

魚井玲奈が驚いたように目を丸めた。

 

「俺たちふたりで過ごした、魚井秘書の誕生日だ」

 

魚井玲奈とイタリアンを食べるたびに、あの日の光景が頭に浮かぶ。

 

自分が増殖しそれぞれの属性が個性を発揮することで、ますます困難が増えている。

そんな現実だったが、絶対に変わらない思い出はちゃんとある。

 

そのひとつ――。

あの日の風景がまさにそうだ。

 

「もちろん覚えてます。常務の秘書になるのを、心の中で決めた日ですから」

 

魚井玲奈ははっきりと言った。

その口調があまりにも断定的であったため、かえって機械的に聞こえてならない。

 

……あの日の感情を、修正したんだな。

 

沈思熟考は深く考えることなく、魚井玲奈の気持ちを正確に読みとった。

 

「今さら聞くのもあれだが、秘書の仕事はどうだ?」

 

「最近少し大変です」

 

「理由は?」

 

「常務がずいぶんと変わられましたので」

 

「正直に言ってくれ。どこが変わったと感じる?」

沈思熟考はしばらくの沈黙のあとに言った。

 

「あまりに苦しそうに見えます」

 

「苦しい? 副会長も帰ってきたじゃないか」

 

「すべての環境が元通りになればいいのに、と思うことがあります……」

 

魚井秘書の言葉がうまく理解できなかった。

まるであの日のあのときのように。

 

沈思熟考と魚井玲奈はそのまま深い沈黙へと入っていった。

俺は一億人 ~増え続ける財閥息子~

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