彼を好きになったのは、大学へ向かうバスの中。 痴漢に遭った女子高生を、彼が救ったのを見た時だ。
ほぼ一目惚れに近かったのだろうと、振り返れば村上は思う。
女性に興味のない村上は、短いスカートをはためかせている女子高生が、俯きがちに震えてるのを見て、つまらなそうに、後ろの中年男に目を遣った。
村上の好む、美しさからは程遠い、顔中あばただらけの、醜く肥えた脂ぎったオジサン。思わず目を背け、知らんぷりをした。
そもそも、短いスカートなんかで男を煽るから、そんな目に遭うんだよ。
苦々しい気持ちで、女子高生に夢中な男を軽蔑し、さらに思慮の浅い女子高生すらも蔑んで、耳にあてていたイヤホンの音量を上げたその時だった。
🖤「やめてください」
ふいに、男の腕を握った手がある。
スーツにコートを着た、シュッとしたサラリーマンらしき男が反対側から現れたのだ。
🖤「彼女、嫌がってるでしょ」
低めの渋い声で男ははっきりと言い切ると、加害者である中年男に堂々と対峙した。村上は彼を見て、ひゅうっと口笛を吹きたいような気分になった。
こんなイケメン、この沿線にいたのか。
一度見たら二度と忘れられないような端正な容貌。黒い髪をテクノカット気味に刈った、上背の高い男。一目で村上の興味を引いた。
これは、なかなか…。
ちょうどバスが停車し、痴漢行為を見咎められた男は、全力で男の腕を振り払うと、逃げるようにバスを降りて行く。男は痴漢に構わず、女子高生に向かって微笑んだ。
🖤「大丈夫?気持ち悪かったね」
女子高生はお礼を言い、頻りに頭を下げているが、彼女も彼女で、若い男の姿に見惚れているようだった。憧れの芸能人でも見るような目つきに、村上は少し鼻白む。
村上の悪戯心に火がつき、男が降りるバス停で一緒に降り、その肩を掴んだ。
🤍「ねぇ」
🖤「?」
🤍「さっきの、カッコよかったよ」
🖤「……それは、どうも」
男の目は訝しげに村上を見ている。そして、ひとつ、息を吸うと、自分より背の高い村上に全く怯まずに言った。
🖤「君も見てたろ」
そして、その目が細くなる。
🖤「助けられたはずだ」
村上は初めてはっきりとした嫌悪感を向けられたことに気づき、みじろいだ。そんなふうに扱われることは彼の人生には今までなかったから。男は、それじゃ、と言って一瞥もせずに、村上をその場に置き去りにして立ち去った。
💚「先生、こんにちは」
あれから佐久間に事情を聞こうにも、佐久間は詳しいことは本人に聞け、と言って何も教えてくれなかった。仕方なしに家庭教師のこの日まで、亮平は大人しく待つことにした。
翔太は階下で本を読んでいる。元来、外遊びよりも家にいることの方が好きな翔太は、亮平が嫌がるのをわかっているのか、この頃は勉強中は部屋によりつかない。誰もいないリビングで本を読んだり、絵を描いたりして大人しく待っている。
90分。
この時間が、二人きりでいられるタイムリミットだった。
村上はいつも通りの爽やかな笑顔を見せ、翔太の所在を確認すると、亮平に続いて、部屋に上がった。
🤍「ごめんね、少し忙しくしていて…」
亮平は、村上を見上げる。
その目は、ものこそ言わないが、寂しさで溢れていた。村上は一度亮平を軽く抱きしめると、始めようかと優しく言った。
会えない間に言いたいことはたくさんあったはずなのに、こうして村上の、吸い込まれそうな圧倒的な美しさに包まれると何も言えなくなる。そして、そんな苦情が掻き消えるくらいに、こうして会えることが、亮平には嬉しくて仕方がなかった。
それから30分ほど真面目に問題集に取り組み、休憩しよう、ということになった。
🤍「亮平を見てると、子供に戻りたいって思うな」
💚「先生?」
村上の大きな手が、亮平の小さな頭を優しく撫でた。
💚「俺は、早く大人になりたいって思う」
🤍「どうして?」
💚「だって、先生に相応しい人間になりたいから」
てらいなく、真っ直ぐに村上に恋する心をぶつけてくる亮平。村上は、嬉しい気持ちと、戸惑う気持ちが入り混じった複雑な気分でいた。
……初めはそんなつもりはなかった。
ただ、美味しくいただくだけの、青い果実。それでも自分を信じ、憧れを抱き、神のように崇める少年が眩しい。今は、どんどん艶やかになっていく亮平の放つ色気に、気後れさえしてしまう。
もし、あの男が、俺がしているこの行為を見たら、知ったら、どう思うだろうか?
まあ、そんなことは起こりえないのだけれど。
村上は心の中で自問自答した。
二つの恋心が胸の中でせめぎ合う。
🤍「ねぇ、亮平くん。受験が終わったら、俺と旅行しない?」
💚「え……」
亮平の顔が上気する。
嬉しさと、本当にいいの?と言いたげな震える睫毛にキスを落とした。
🤍「合格祝いに……どうかな?…」
💚「うんっ…あっ…はい!!俺っ!頑張ります!」
亮平の声が裏返って、村上は笑った。
亮平は頬をピンクに染めて、それでも嬉しそうに鉛筆を握る。そんな彼を、村上は温かい気持ちで見守った。








