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ステージを降りてから、もう何時間も経ったはずなのに、まだ身体の奥底では音楽が鳴り響いているようだった。
靴底に残る微かな振動、指先にうっすらとまとわりつく汗の名残、鼓膜の奥にこびりついた歓声――
それらすべてが、まだ“本番”を終えさせてくれない。
深夜の会場は、まるでさっきまでの熱狂が嘘だったように静まり返っている。
ケーブルが片付けられ、床の照り返しが冷たくなった楽屋には、二人の呼吸音と、蛍光灯が時折唸る音だけが静かに浮かんでいた。
ソファの奥深くに沈み込むように、ユーキは腰を下ろした。
わずかに息を整えるように肩を上下させながら、手にしたペットボトルのキャップを外す。
ごく、と喉が鳴る。
白く繊細な首筋が水の通り道に沿ってたゆたうように動き、うっすらと汗ばんだ肌に照明がぼんやりと映り込んだ。
その輪郭にかかる前髪の影が長い睫毛をふわりと撫でるたび、どこか夢の中を見ているような錯覚に陥る。
タカシは、その姿から目を離せなかった。
まるで照明の残り香のような、淡くて、どこか非現実的な時間がそこには流れていた。
「なあ、今日のダンス……ユーキ、めっちゃ気合い入っとったやろ」
ソファの肘掛けに腰を掛けながら、タカシが目を細めて言う。
楽屋の間接照明が彼の横顔を柔らかく照らし、唇の輪郭さえもゆるやかに際立たせていた。
ユーキは水のキャップを閉め、ふと笑った。
「気づいたの?」
「そら気づくわ。俺、ずっとお前のこと見てたもん」
タカシの声は低く、どこか押し殺したようだった。
いつもの朗らかな調子とは違う。
静かで、熱を含んだ関西弁が、楽屋の空気をじわじわと染め上げていく。
「なぁ……お前、試してたんか?」
ユーキは言葉を返さず、ただタカシを見つめる。
その視線が、肯定の代わりだった。
「……バカやな」
そう呟いて、タカシはユーキの唇を奪った。
静かで、優しくて、けれど明らかに理性を引き剥がしていくようなキスだった。
ユーキの身体がわずかに跳ねる。
驚きではない――欲望を自覚した瞬間の、あの震えだ。
「……っ、タカシ、ここ楽屋……誰か来たら……」
「ええやん。誰もおらへんし、来ても“ちょっと休む”言うたら済むやろ?」
その言葉と同時に、タカシの指がユーキの太腿をなぞる。
ジャージ越しのその熱は、服という障壁を無意味にするほどにじわじわと広がっていった。
ユーキの息が少しだけ荒くなる。
そして、ふいにぽつりとこぼれた言葉は、標準語でも関西弁でもなかった。
「……やめぇ……タカシ、そんなん……触られたら、うち……しんどいけん」
徳島のなまりが、吐息と混ざる。
それは、ユーキが誰にも見せない言葉。
ふたりきりのときにだけ現れる、彼の“本当”の声だった。
タカシは一瞬目を細め、ユーキの頬をそっと撫でた。
「今の……徳島弁やな」
「……うん。ほかの人には、絶対言わんけん。タカシだけやけん、許しとるんや……」
「そんなん……そんなん聞かされたら、余計に止まられへんって」
唇が顎に、喉元に落とされていく。
指先はジャージの裾をめくり、汗ばんだ素肌に触れる。
熱のこもった吐息が交わり、静かな空間に淫靡な音が滲み始める。
「……ユーキ……声、出してええよ。俺だけが聞いとる」
「……もう、しらんけん……ほんまに……好きやけん、もう……」
「俺もや。ずっと好きやった」
タカシの声が、まるで告白のようにユーキの耳をくすぐる。
腰が浮かされ、肌と肌が重なり合い、深く深く、互いの奥へと溺れていく。
ソファの軋む音、交差する息遣い、微かに震える「好きや」という言葉――
それらすべてが、夜明け前の静寂を満たしていった。
「……タカシ、行くんか?」
荷物を片づけながら、ユーキが問いかける。
声は平静を装っていたが、指先はどこか落ち着きなく動いていた。
「せやな。ホテル、取ってもろてるから。……お前も来る?」
ごく自然なように、でも少しだけ低く、誘うような声。
ユーキは迷うそぶりも見せず、小さくうなずいた。
会場の裏口を抜けると、夜風が火照った身体にひんやりとまとわりつく。
深夜2時、タクシー乗り場には誰の姿もなかった。
ふたりは肩を並べて歩き、何も話さずに車に乗り込んだ。
車窓を流れていく街の灯りが、車内に揺れる影を落とす。
信号待ちのたび、タカシの手がユーキの手を探すようにそっと触れ、ふたりの指先は静かに絡んだ。
ホテルの車寄せにタクシーが滑り込んだとき、周囲には人影ひとつなかった。
エントランスの自動ドアが静かに開くと、ロビーの中には音楽も流れておらず、空調の風が観葉植物の葉を揺らすかすかな音だけが響いていた。
夜の気配がまだ濃く残る空間に、ふたりの足音だけが控えめに響く。
帽子の庇を深く下ろしながら、タカシがフロントのスタッフにカードキーを受け取る。
まるで誰にも気づかれないことを祈るように、ユーキは一歩後ろで無言のままそれを見つめていた。
エレベーターに乗り込むと、扉が閉まるその瞬間、タカシの手がユーキの腰にまわった。
「……なあ、もうちょいだけ、こうしとってもええか?」
ユーキは答えず、身体を預けた。
ふたりの体温が、静かに、確かに溶け合っていく。
部屋に入ると、カーテンは閉じられていて、室内は薄闇に包まれていた。
ベッドサイドの照明だけが灯されていて、やわらかい琥珀色の光が床に落ちている。
どこか現実とは切り離されたような、夢の中にいるような空間だった。
身体を重ねたのは、それからしばらくしてのことだった。
言葉も、理性も、服さえも置き去りにして、ただ互いの温度だけを確かめ合った。
音も光も柔らかく、まるで世界からふたりだけが抜き出されたようだった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、絡み合った指先を淡く照らしていた。
空調の静かな唸りが、かすかに聞こえる。
ベッドの中、白いシーツの上で、ふたりの身体はまだぴたりと寄り添っていた。
タカシは仰向けのまま目を閉じ、ユーキの額を抱えるように片腕をまわしていた。
額から、頬、鎖骨へと流れる肌に、朝の光が静かに触れていた。
熱を帯びた痕が、いくつも、指先でなぞった証のようにそこに残っている。
「……タカシ、起きとん?」
ユーキの声は、ごく低く、眠たげで、あたたかかった。
徳島の訛りが混ざっていたのは、ふたりきりの朝だからこそだ。
タカシは目を細め、少し笑った。
「起きとる……けど、お前の声聞いたら、また寝そうになってまうわ」
「……アホ」
微笑みを交わしたあと、ふたりはしばし無言のまま、ただ触れ合っていた。
ベッドの中はまだほんのりと暖かく、昨夜の余韻が体温に溶けていた。
「……ユーキ」
「ん……?」
「昨日のこと……ほんまに、後悔してへん?」
ふたりの間に、静けさが戻る。
だがそれは気まずさではなく、言葉を探すための静けさだった。
やがて、ユーキはゆっくりと頷いた。
「ううん。……こんなにちゃんと、“気持ち”ぶつけ合ったん、初めてやけん……」
「……そっか。……ありがとうな」
「でもな……ちょっとだけ、怖いんや」
「何が?」
「……今までどおりには、もう戻れんのちゃうかなって」
タカシは、ユーキの頬に指を滑らせた。
夜が明けて、現実が差し込んでくるのが怖い――でも、それでも。
「戻らんでええよ。俺は、前よりもっとお前とおりたいから」
「……タカシだけやけん。うちのこの声、聞かせとるんは」
「うん。俺の前では、ずっとそのままでいて」
指先が絡み、唇がそっと重なる。
窓の外では、朝の街が目を覚まし始めていた。
でも、ここだけはまだ、夜の名残の中――
ふたりだけの時間が、静かに続いていた。
ブランケットの下で最後に手を握りしめてから、ふたりは何も言わず、それぞれの服に手を伸ばした。
けれど、交わした視線にはもう、昨夜とは違う色があった。
恋を知ってしまった目は、もう幕の内側には戻れない。
どんなリハーサルよりも正確に、どんな本番よりも誠実に、
ふたりだけの鼓動が交わる、たったひとつの舞台――
それはステージの外にある、誰にも見せない“真実”の上に、確かに存在していた。