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窓際の席に座ると、足元から微かな陽射しが靴のつま先を照らした。春の構内は静かで、鳥の声が、やや遠くに感じられた。
教室の中はほどよくざわついていて、誰かの笑い声、ノートをめくる音、椅子が引かれる音――そのどれもが、「今の時間」だった。
けれど、悠翔の感覚は、半歩遅れていた。いや、遅れているわけでも、迷っているわけでもない。ただ「入っていけない」。
他者の間に流れる空気を、どう切って割って、自分の位置を置けばいいかがわからないのだ。
「……あの、隣、いいですか?」
声をかけられて、思考が戻る。顔を上げた先には、同じ講義で何度か見かけた女生徒が、少し遠慮がちに笑っていた。
うなずく。返事をする喉の力が、ほんの一瞬だけ遅れる。
「ありがとう。ノート、見せてもらうかも……」
彼女の言葉は、悪意の欠片もない。けれど、それでも悠翔の中には、どこか「構え」が残る。
ノートを見せてはいけない、というわけではない。だが、「見せる」ことが、自分の情報を明け渡すようで、どこか、落ち着かない。
彼女がメモを取る間、悠翔は横目に彼女のペンの動きを見ていた。書く文字が、やけにきれいで、線が柔らかかった。そういえば、自分はこういうところをずっと見ていた気がする。人の手元、人の声、人の温度――直接、視線を合わせずに、他者を測る習慣。
それが「生き残る手段」だった。
昼の学食は混み合っていた。トレイを持つ手に、わずかに力が入っているのを自覚する。
――後ろからぶつかられたり、皿をひっくり返されたり、そういう記憶は、学校に多く残っている。けれど、ここではそれは起こらないと、頭ではわかっている。
それでも、トレイの上の食器がかすかに震えるのを、誰も気に留めることはない。
カウンター席に腰を下ろす。向かいには誰もいない。ちょうどいい。こういう「間」は、自分のためにある気がする。
味噌汁の湯気があがる。ぬるいが、それでいい。昼を食べられる。それだけで、満たされているはずだった。
――けれど、ふと気づく。
「今、俺、当たり前に飯を食ってるんだな」
……そのことに、言いようのない違和が走る。
何が「違う」のかは、言葉にならない。けれど、その「普通」を感じるたびに、自分の中のどこかが軋む。
幸せを感じてしまう自分に、少しだけ嫌気がさす。
けれど、それでも、今日はバイトがある。仕事を終えたあとの洗濯と、明日の朝の米を炊く段取り。
忙しい方がいい。身体を動かしている間は、音も、声も、夢も、思い出さずに済む。
それでも、夢は時々、不意にやってくる。
――風呂場の隅。濡れたタイル。冷たい床に押しつけられた腕。
「動くな」
「見ろ、こっち」
「黙っていろ」
声はいつも、音にならない。「そう言われた」と記憶が知っているだけ。
だからこそ、なおさら鮮明だ。光景よりも、感触よりも、「命令」という形式だけが、今も体のどこかに残っている。
夢から醒めたあと、指の先がかすかに震える。
コップを掴みそこねて、水が跳ねる。
そのたびに、また――ほんの少し、自分を嫌いになる。