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その夜は、不思議なくらい静かだった。
風もなく、虫の声も遠く、ふたりの鼓動だけが確かに聞こえていた。
優羅の部屋、カーテンを閉め切った中で、小さな灯りだけが世界を照らしていた。
「……今日は帰らないよ?」
美咲がそう言ったとき、優羅はただ「うん」と頷いた。
もう“外泊”に罪悪感などなかった。
むしろ、世界のどこにも戻る気はなかった。
ふたりは、布団の中で横に並ぶ。
何も言わず、目を閉じたまま、肩と肩が触れ合う距離で呼吸を揃える。
「ねえ、優羅さん」
「なに?」
「今まで、ずっと“触れちゃいけない”って思ってたけど……」
その言葉に、優羅はそっと目を開けた。
視界に映るのは、ほんの数センチ先にある、美咲の顔。目。睫毛。震える唇。
「ねえ……キス、してもいい?」
その問いは、優しさでも欲望でもなかった。
“確認”だった。ふたりがふたりでいることを確かめるための。
優羅は、ゆっくりと首を動かして、美咲に触れた。
唇と唇が、触れた。
熱くも、冷たくもなく、ただ“静かに”触れ合っただけのキス。
名前を持たないその行為には、恋愛という枠も、愛情という意味も、すべてが存在しなかった。
でも――
「……涙、出てきた」
キスのあと、美咲が小さく呟いた。
「私、こんなキス、初めてだった。……“優しい”とかじゃなくて、“悲しい”って感じたの、はじめて」
「私も」
ふたりは、名前のないキスをもう一度交わした。
今度は、涙を拭うように、そっと、ゆっくりと。
「恋人、なのかな、私たち」
「分からない。でも、もうどうでもいいよね」
「うん。名前なんて、なくていい。
この関係が、どんな形でも――あなたがここにいること、それだけでいい」
ふたりは何度も唇を重ねた。
深くはなかった。ただ、同じ時間を、同じ身体の距離で、確かめ合うように。
「もしも、生まれ変わって、また会えたとしても」
「うん?」
「そのときは……ちゃんと“好き”って言えるような関係になれたらいいね」
「……そんな関係じゃなくてもいい。
また“あなた”に会えたら、それだけで、また壊れていける」
「ほんと、私たちって――」
「どうしようもないね」
ふたりは、肩を震わせて笑った。
その笑いは、今までのどんな涙よりも静かで、でもあたたかかった。
夜が明けるころ、ふたりは眠った。
手を繋いだまま。身体を重ねることもなく、ただ指先と指先だけを頼りに。
それが、ふたりにとっての――最大限の“愛”だった。
名前のないキス。
誰にも見せない、誰にも教えない、誰にも理解されない。
でもきっと、それはふたりだけが知っている“永遠”のようなものだった。
そして、それができたからこそ。
ふたりは、次の一歩を踏み出す覚悟を、固めてしまった。
“この世界に、やり残したことはもうない”
そう思ってしまうほどに、
あのキスは、優しくて、儚くて、終わりのように美しかった。