この作品はいかがでしたか?
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─藤鳴 響という人物は、俺の視界にいきなり入ってきたくせして、俺の足りないものを一つだけ埋めた。……ちゃんと言えば、そんな気がしただけだけど。
なんだかんだで距離感を詰めすぎてしまい、第一印象が”気まずい存在”になってしまいそうになったのを必死で何とかしたことと、きっと虐待が原因でこちらに引き取られたことも事実である。
「大丈夫?」
「んーん」
ちらりとこちらを見たと思えば、すぐに逸らされてしまう目。思わず見入ってしまうあの静かな目を、ずっと僕に向けられるようになればな、と思ったりもしてしまうほどに彼の目は綺麗だ。濁ってはいるけど、いつまでも動じることのないようなあの目は、なんというか…直球に言えば、好きだ。
そんな響と二人きりで対話ができることを今まで待ちわびて、今日親が仕事でいなくなったのをいいことに夜更かしをしている。実際は寝られなかっただけだけど。
「飲む?」
「…味しないからいらない」
「だって紅茶だもの…はちみつ入れよっか」
「いいよ別に」
「ふうん」
そんなことを言ったが、俺のは砂糖たっぷりのミルクティーだ。俺も甘くないの嫌。
響に紅茶を渡そうか迷いに迷ったせいでぬるくなったそれを一口。紅茶の風味と砂糖の甘味が口の中を満たした。
ため息をひとつ。ベランダに通る、気温差の激しい秋を彷彿とさせるような夜風はぬるいが、それも気持ちがいい。
「…悩みゴト?」
「……ううん。何となくため息ついちゃっただけ…」
「嘘つけ。なんか違う」
人のことよく見てるやつ。なんか違うって…そんなんで分かるのか…もっとちゃんとしなくちゃ。
「表情暗いし、あの…誰だ、玄関で分かれたヒト…の前での顔と全く違う」
コウのことか。よく見てんな。一瞬だろ。
……もう諦めるか。どうせ分かってんだし。
「……悩めてたらとっくに愛想尽かしてるよ」
「あ、やっぱりそう。…優等生の猫被りなんだ、鳴宮君は」
いたずらっぽい笑みをかすかに浮かべ、持っていたマグカップをこんこん、と叩かれる。陶器の音が響いた。
「みんなにはいいひとって思われてんだろ?」
「たぶんね」
「でも、実際は性悪なワケだ」
「たぶん」
「自分のこと見失うなよ」
「だってさあ…」
─いつからこうなったんだろう。
いつからか、みんなの前で感情をあらわにすることができなくなった。
失望されるのが嫌だった。泣きたくなかった。貼られたレッテル通り、天才のままでいたかった。
そんなプライドのせいか、”優等生”の皮を被ったまま外せない。赤の他人に素顔を見せられない。人を信じられない。怖い。
そんな感情が、俺の中には隠れている。表面上じゃ絶対分からないって思ったのにな。
「…秘密知られちゃった」
「だから?なんか要求したそうな目してんね」
「……あんたの秘密も」
「秘密なんてないんだけど」
「あるし絶対…」
「…じゃ、来る?」
「ほらある!ほら!」
「しー…近所迷惑」
んじゃ行こうか。準備して、と響はノースリーブのキャミソールの上にカーディガンを羽織る。俺は困惑しつつも、ついて行くことにした。
「準備できた?合鍵は?」
「持ってる」
「基本的に暗いところ通っていくから。懐中電灯はマスト。あげる」
「ん…それ、ギター?」
「折角だし…貰ったの見ただろ?」
鍵を開ける。ドアのきしむ音。夜に親に内緒で飛び出すことなんて全くなかったから、不思議と緊張しているのがよくわかった。
「行こ」
「うん」
どうやら向かっている場所は、市街地にある廃ビルの屋上らしい。
そこに至るまでの道中はもう見ていられないほどヤバかった。路地裏に響く水音と嗚咽と何かを殴る音。呻き声も時折聞こえ、変に響に絡む大人もいた。どうやら知り合いのようだったが、こいつはなんでこんなやつと面識があるのか分からなかった。なんでこんな平然としてられんだよ。
鉄の階段を一歩ずつ登りながら、響はこちらを振り向く。相変わらずの顔だった。
「…あっちの市街地、クソみたいな治安してそうだろ?ここもだけど」
「うん…なんか酒臭い……」
「ま、この街なんてアル中とかのフツーじゃない社会人かその辺で野垂れ死んでるホームレスか異性に色目使うバカしかいないし。まともなやつなんて居酒屋とかホテルのアルバイトくらい」
「吐き気しそう」
「吐けば?俺も逃げてきた時ここで吐いた。…俺の事拉致ろうとする奴がいてさ。ほんと逃げるもん多くて…父さんの虐待とそれとで必死で逃げてたよ…あっち行けばあんたに気持ちいいコトしてくれる色狂いがいるかもね。俺は嫌だけど」
「反応の仕方が分からないんだけど」
「…ん。着いた」
ぎい、と重そうな音を立てて古びたドアが開く。ギラギラと輝く看板の明かりで眩しいが、退廃的な雰囲気はどこか惹かれるものがあった。
「ようこそ、俺の秘密基地へ」
ふと下を見ると、鋭利な石でつけたような無数の線がある。ただの線のように見えていたそれは、俺の中で見覚えのある形を作っていく。─楽譜だった。
「…これ、響がやったの?」
「どうせ廃ビルだし何してもいいだろ」
楽譜に乗せられた音色を口ずさむ。聴いたことがない、それでもどこか心地いい音色だった。
「ピアノでもやってた?」
「1年前までね。急にどうしたの?」
「すんなり楽譜読んでるし、……音も綺麗」
「どうも。……これ、作ったんだ?歌うか弾くかしてよ」
「……趣味程度だから。まだ未完成だし」
「いいよそれでも」
ギターを出す。お洒落なキャラメル色のアコースティックギターだ。
響は呆れたように、でもどこか嬉しそうに小さく歌い始めた。
……ああ、響にしか書けないんだろうな、こんな音色と詞は。
直接心に語りかけてくるような、それでいて道端の小さな花を見ているような。
─複雑で綺麗。
─優しく、強い。
─後ろ向きでひんやり冷たい歌詞の中に、小さな温もりを育む。
そんな歌に、俺はすっかり聴き惚れてしまった。
「…満足?」
「……すごいね。歌歌うの、好き?」
「好きだった。うるさいって…黙れって、言われるまでは」
「…そっか。もう話さなくていいよ」
それを忘れるように、響は伸びをした。風が吹き、響の白く綺麗な髪が揺れる。
「人前で歌うの久しぶりだな…」
「……やった」
「は?」
「俺が初めてなんだね。鳴宮家として歌って、それを聴いたの」
初めて聴いたんだ。鳴宮家で、多分、初めて。
……これで、響の初めては5回目。初めて身体に触って、初めて目が合って、初めて声を聴いて、初めて物をあげて。そして、初めて歌を聴いた。
「…それがどうした?」
「ふふ……まともに歌聴かれたのなんて、俺が初めてじゃない?」
「……!」
─あ、これやらかした。過去を他人から言われるのは駄目だったんだ。
視線を刃物のように突き立てたが、一瞬にしていつもの響に戻る。
「…帰ろ」
「あ……うん、わかった」
家に戻るまで、俺らが言葉を交わすことはなかった。響が時折零すため息は、俺の中にどこか重くのしかかる。
家へ帰ると、まだ両親は戻っていなかった。静かな室内に、2人の足音だけが響く。響の部屋の前、ずり落ちたカーディガンを戻すと同時に、彼は口を開いた。
「…じゃあ。寝坊するなよ」
「うん。おやすみ、響」
ぱたり、と木製のドアが閉まる。視界が木目で埋めつくされ、まるで追い出されたような悲しさを感じた。
そのあとすぐ、ぱちぱちとキーボードを打つ音が聞こえる。時々鼻歌と咳払い。
あれが響の日常なのに。どうしてだろうか。
─俺は何故か、部屋の前から離れることができなかった。
コメント
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やっぱり改めてよく文章を見てみると、比喩とか各キャラクターの性格を会話とか仕草できちんと表したりするの凄いわ…