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リフェアリー
128
諏訪湖は、動いていなかった。
湖は、動かない。大剥離の前も、後も。要は、湖畔に立って、それを長い間見ていた。水面に、山が映っていた。山も、動いていなかった。
「ここは、何も変わってないみたいだ」瑠衣が言った。
「変わってる」要は言った。「見えないところが」
湖畔の集落は、漁をしていた。わかさぎ。鯉。鮒。朝、舟が出て、昼に戻る。獲れた魚は、集落の中で分ける。余った分は、干す。干した魚は、冬の食料になる。
集落の長は、女だった。
五十代。短い髪。日に焼けた腕。名前は、佐久間と言った。夫が漁の最中に亡くなり、そのまま、集落をまとめている。
「東京から、来た」佐久間は、三人を見て言った。「何をしに」
「木曽へ。妹に会いに」
「通るだけなら、通ればいい。泊まるなら、働け」
「働きます」
佐久間は、つむぎを見た。
「あんた、網は引けるか」
「やったこと、ないです」
「なら、魚を干せ。それもできないなら、水を汲め」
佐久間は、それだけ言って、舟に戻った。
諏訪の集落には、掟があった。
知らない相手を、信じるな。
壁に、書いてあるわけではない。でも、誰もがそれを守っていた。集落の外の人間とは、取引をしない。物を売らない。買わない。通るだけなら通す。働くなら、食わせる。それ以上は、ない。
「評判台帳の話を、してみたんだ」要は、夜、つむぎに言った。「佐久間さんに」
「どうだった」
「要らない、って。『うちは、顔を全部知ってる。知らない顔は、入れない。それで、十分だ』」
「正しいね」つむぎは言った。
「正しい」要は認めた。「集落の中では。でも、集落の外とは、何もできない。甲府の市で、わかさぎを売れば、米が買える。でも、売らない。甲府の人間を、信じないから」
「信じなくても、買えるように、したんでしょ。甲府で」
「した。でも、ここの人は、甲府に行かない。行く理由が、ない。ここで、足りてるから」
足りている。要は、その言葉を、頭の中で転がした。
諏訪の集落は、足りていた。魚があり、水があり、顔見知りがいる。足りているから、外を信じる必要がない。信じる必要がないから、信用を作る必要がない。
それは、間違いではなかった。閉じた共同体は、強い。ゼロは、ここには、入れない。入る隙間が、ない。
でも、閉じた共同体は、広がらない。
「要さん。足りてるなら、いいんじゃない?」
要は、答えられなかった。
三日目の夜、つむぎが、佐久間と、湖畔に座っているのを見た。
要は、近づかなかった。遠くから、二人を見ていた。
つむぎは、何かを話していた。佐久間は、聞いていた。それから、佐久間が、何かを話した。長く話した。つむぎは、聞いていた。
一時間、二人は、そうしていた。
翌朝、つむぎは、要に言った。
「佐久間さんの旦那さん、三年前に、湖で亡くなったんだって」
「聞いた」
「舟が、転覆した。でも、保険が、下りなかった。保険会社が、『記録にない』って。旦那さんが、保険料を払ってた記録が、消えてたんだって。大剥離の、三年前に」
要は、動けなくなった。
「システムの不具合、って言われたんだって。払ってたのに。通帳に、引き落としが、あったのに。保険会社の記録には、なかった。だから、下りなかった」
「……それで」
「それで、佐久間さんは、記録を信じなくなった。大剥離の前から。『記録は、向こうが都合よく消せる。顔は、消せない』。だから、知らない相手は、信じない」
要は、湖を見た。
佐久間の掟は、大剥離が作ったのではなかった。大剥離の前から、記録は、人を裏切っていた。小さく、静かに、何度も。ゼロは、それを、一晩で、全部やっただけだ。
「要さん」つむぎは言った。「佐久間さん、私のことは、信じてくれた。顔を覚える話をしたら、『あんたは、顔の人だ』って」
「顔の人」
「記録じゃなくて、顔で、人を覚える人。だから、信じられるって」
要は、つむぎを見た。
要は、仕組みで解こうとしていた。三冊。割符。評判。全部、仕組みだ。仕組みは、正しい。でも、仕組みは、佐久間の夫を、生き返らせない。佐久間の三年間を、取り消さない。
つむぎは、仕組みで解かなかった。一時間、湖畔に座って、話を聞いた。それだけだった。
「明日、出発だ」要は言った。
「うん」
「佐久間さんに、言ってくれ。もし、いつか、甲府に魚を売りたくなったら、入口の台帳で、つむぎの名前を言えって。つむぎの名前なら、会長が、丸を一つ、つけてくれる」
「私の名前で、いいの?」
「君の顔が、信用だ。僕の仕組みは、まだ、ここには届かない」
その夜、湖に、星が映っていた。
動かない湖に、動かない星が。
要は、それを見ながら、思った。閉じた共同体と、開いた市。どちらが正しいかではない。どちらも要る。閉じたものが、開いたものを支え、開いたものが、閉じたものをつなぐ。
それが、どういう形になるのかは、まだ、わからなかった。
(第18話「手形」へ続く)
コメント
1件
諏訪の集落の空気、すごく伝わってきたわ。湖が「動かない」っていう描写からして、もうこの場所の時間の流れが違うのがわかる感じ。佐久間さんの「記録は消せる、顔は消せない」って言葉、胸に刺さった。大剥離の前からシステムに裏切られてた人がいるっていうのが、ゼロの話をより身近に感じさせた。つむぎが「顔の人」って呼ばれたシーン、めっちゃ温かかった。仕組みじゃなくて、ただ話を聞くって、当たり前だけど一番強いんだな。要の仕組みと、つむぎの信頼、どう重なっていくのか、続きすごい楽しみ。