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午前五時半。美月は靴紐を結び、軽く伸びをして玄関を出た。
特別な意志があって健康を保っているわけではない。ただ、二年前に亡くなった母・志津枝の面影が、この遊歩道にはまだ濃く残っているからだ。
「美月ちゃん、朝の空気は一番のご馳走だよ」
母はそう言って、お気に入りの「つまみ細工の髪飾り」を着け、眠ったままの街を歩くのが好きだった。
そういえば、あの髪飾りはどこにあるだろうか。母が亡くなってから一度も探していない。おそらく母が使っていた箪笥のどこかに置いてあるはずだ。
母が亡くなってから、一人で歩く道は少し広く感じる。それでも足を止めてしまえば、母との繋がりまで途切れてしまいそうで、美月は雨の日以外、毎朝同じ道を辿っている。
この街は都心から少し離れた閑静な住宅地だ。区画整理が行き届き、モダンな一軒家や低層マンションが整然と並ぶ。
だが、この散歩道の一角には、古くから囁かれる都市伝説があった。
「江戸時代の初め、あの辺りの大きな屋敷で、恐ろしい事件があったんだって」
昔、母が話してくれたのを美月は覚えている。
武家屋敷の主人が「妻が他の男と浮気した」と思い込んで突如発狂し、激しい嫉妬と狂気に駆られて妻と幼い娘、使用人たちを次々と斬り殺したという。妻の不徳を疑った男の身勝手な思い込みが生んだ悲劇だった。血の海と化した屋敷はやがて取り壊され、いまとなっては面影すらない。
現在そこにあるのは、クリーム色の壁が可愛らしい、ごく普通の二軒並びの一軒家だ。手入れの行き届いた庭にはガーデニングの鉢が並び、心霊スポットらしい陰惨さは微塵もない。
美月は毎朝、その家の前を通る。
(……今日もお邪魔しますね)
心の中で呟きながら通り過ぎるのが日課だった。嫌な予感がしたことも、幽霊を見たこともない。ただの昔話だと、美月は信じ切っていた。
その日の朝も、いつもと同じ静かな一日になるはずだった。
玄関を開けた瞬間、美月は息をのんだ。
視界を覆う、見たこともない厚い霧。二、三メートル先すら霞んで見えない。街灯の光が白く滲み、家々の輪郭すら消し去っている。
「すごい霧……珍しいわね」
美月は首をすくめながらも、いつもの道へ足を踏み出した。肌を刺す湿り気と冷気が、頬を濡らしていく。
スニーカーがアスファルトを蹴る規則的な音だけが響く。視界は悪いが、身体が道を覚えている。ここを右に曲がり、あの角を曲がれば例の「屋敷跡」の一軒家があるはずだ。
三分ほど歩いた頃だろうか。
足裏に伝わる感覚が、急に変わった。
(……え?)
コンクリートの硬さが消え、じわりと湿った柔らかい感触。靴底が泥を吸うような、沈み込む感覚。
美月は立ち止まり、足元を見下ろした。しかし厚い霧のせいで自分の足先すら見えない。
「嘘でしょう……道を間違えるはずがないのに」
二年間、一日も欠かさず歩いた道だ。迷うはずがない。引き返そうと半身を翻しかけたその時、霧の切れ目から、黒々とした巨大な構造物がぬっと現れた。
白壁の上に据えられた、重厚な土塀。
「……何、これ」
息を呑む美月の前で、さらに霧が薄らぐ。土塀の切れ目には、太い丸太で組まれた見上げるほどの黒漆塗りの武家門が構えていた。屋根には立派な瓦が葺かれ、古い木材の匂いと、どこかカビ臭い湿った空気が漂う。
こんな時代錯誤な屋敷が、この住宅街に存在するはずがない。
心臓が急激に脈打つ。全身の毛穴が開くような戦慄。
(引き返さなきゃ……)
恐怖に背中を押され、踵を返そうとしたまさにその瞬間。
長年油を注がれていない重い木と金属が擦れ合う、不快な音が響いた。
誰の手も添えられていないのに、巨大な武家門が、まるで美月を迎え入れるかのようにゆっくりと開いていく。
開かれた門の奥、仄暗い石畳の玄関先に、誰かが立っていた。
着物姿の少女だった。
十歳前後だろうか。朱色と濃紺の着物を纏い、髪を古い様式で結い上げている。少女は微動だにせず、美月を凝視していた。その顔には喜怒哀楽の感情が一切なく、人形のように無機質だった。
少女はゆっくりと細い腕を上げ、美月に向かって手招きをした。少女の指先は、美月を誘うというより、何かを必死に訴えているようにも見えた。
あまりの異常さに美月は後ろを振り返った。誰か助けを求められる人はいないか。しかし背後にはただ広大な白い霧の海が広がるばかりで、誰もいない。
美月が弾かれたように再び門へ視線を戻すと――そこに少女の姿はなかった。
ただ、門の奥にある日本家屋の大きな玄関格子戸が、暗い口を開けて静かに開いていた。
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