8:00
いつもより少し早めに会社に到着した。
いつもなら当番の子がコーヒーのセットをしてくれているはずなのに、今日はまだらしい。
私はデスクを片づけると、給湯室でコーヒーのセットをした。
「あれ、一華さん早いですね」
立ったままコーヒーを口に運んでいた私に声を掛けて来たのは、後輩の萩本可憐ちゃん。
「うん、早く着いちゃったの。コーヒーセットしといたよ」
「ありがとうございます。でも、一華さん当番じゃないのに、」
「いいのよ。私が飲みたかったし」
「・・・」
ちょっと不満そう。
私は総合職の営業。
可憐ちゃんは一般職の事務。
企業の中のこういう壁は結構高くて、色々と面倒くさい。
そもそも、一流大卒の総合職の女性達は雑用をしたがらない。
まあ私は気にせず何でもするから例外らしいけれど、彼女達には入社したときからエリート意識みたいなものがあって、「私はあなたたちとは違うわ」という態度の子が多い。
もちろん、求められるスキルもノルマも高いわけで仕方がないかなあと思う部分もあるけれど、そのことと日々の掃除やお茶当番をしないのは違うと思う。
しかし、うちの会社では慣例的に総合職の女子にお茶くみや掃除の雑務は回ってこないことになっている。
***
「おはよう」
「おはようございます」
8時半を回り、フロアも賑やかになってきた。
さあ、今日も1日が始まる。
入社して6年にもなるのに、なぜかこの時間は緊張する。
いくら強気なふりをしてもトラブルは怖いし、電話が鳴ればドキッとする。
あれそう言えば、まだ高田の顔を見ていない。
いつもは早いのに・・・
まあ昨日のこともあるから、顔を合わせないですめばそれに越したことはないか。
「ねえ、萩本さん今日のお茶当番だったわよね?今朝、コーヒー入れた?」
「はい」
可憐ちゃんがお局様に声を掛けられている。
「来客用のコーヒー使ったでしょう?棚にある方を先に使ってって言ったはずだけれど」
「ああぁ」
「それに、ゴミもおいたままだし。やるべき事はきちんとしてちょうだい」
「すみません」
うそ、ヤダ。
私のせいなのに。
お局様が立ち去ったのを見計らって、私は可憐ちゃんに駆けよった。
「ごめんね」
「いいんです」
可憐ちゃんの困った顔。
「でも・・・」
このままじゃあ可憐ちゃんに申し訳ない。
「お願いですから、何も言わないでくださいね」
「うん」
私にだってわかっている。
ここで私が口を挟めば、「何で、鈴木さんにやらせたのよって」さらに叱られるのは可憐ちゃんだものね。
***
結局、「可憐ちゃん、お昼をご馳走するから」と約束をして業務を始めた。
これ以上何を言っても誰の得にもならないから、黙るしかなかった。
幸い、水曜日の今日は仕事が落ち着いている。
よほどのトラブルがない限りお昼も順調にとれるはずだから、そこで謝ろう。
私も昨日からのメールを確認し、溜った事務作業をこなしていく。
ブブブ ブブブ。
あ、外線だ。
「もしもし、営業一課です」
若手の小熊くんが出た。
「お世話になります。・・・はい・・・はい・・・ええ?」
だんだん険しい顔になっていく。
どうやらトラブルみたい。
小熊くんは入社2年目の24歳。可憐ちゃんと同期で、かわいい男の子。
仕事はできるんだけれど、まだ少し学生っぽさが残るのが難点かな。
指導係の私としては、危なっかしくて目が離せない。
ん?
チラチラと視線を送ってくる。
ただ事じゃないみたい。
「あ、あの、少々」お待ち下さいを言わせてもらえない。
『どうしたの?』
デスクの前まで行き、紙に書いた。
小熊くんは困ったようにキョロキョロした後、
『商品が届かない』
走り書きする。
は?
それは・・・
『どこ?』
と書いた私に、
『山通』と大手の取引先の名前を書き、
「ま、待ってください工場長」
と叫んだ。
って事は、電話の相手は山通の田中工場長かあ。
ったく。
***
私は小熊くんの電話を奪った。
「もしもし田中工場長。お久しぶりです、鈴木です」
『ああ、君か』
うわ、声がすでに怒ってる。
さあどう話そうかと思っていると、
『一体どうなっているんだ。商品が2日も遅れているぞ。昨日の夜にはかならずって言うから待っていれば、今朝も来てない。このままでは今日の午後にラインが止る。どうするつもりなんだ』
いつも以上に強い口調。
えっ、製造ラインが止る?
それは・・・マズイ。
24時間で動いているラインが止れば、損失は莫大なものになる。
その原因がうちの商品が届かなかったからとなれば・・・小熊くん1人の責任ではすまない。
頭を下げて終わるような話ではなく、損失補填って事になるだろう。
下手すれば取引停止って可能性も十分ある。
「申し訳ありません。再度確認いたしまして、早急にご連絡いたします」
「連絡は必要ない。早く届けてくれ」
「・・・わかりました」
そう返事をするしかなかった。
「必ずだぞ」
「はい」
もちろん何の根拠もない。
でも、なんとかするしかない。
何度も何度も頭を下げ、お昼までには必ずと約束して一旦電話を切った。
***
「小熊くん、来て」
不機嫌を隠すこともせず、声だけ掛けて会議室へと向かった。
まずは小熊くんから事情を聞くしかない。
「すみません、鈴木チーフ。でも、今朝には届くはずだったんです」
入ってくるなり頭を下げた小熊くんは、不満そうに唇を尖らせる。
「届いてないからこんな事態になっているんでしょうが」
「それは・・・」
「仕事は結果がすべてなの。言い訳はいらない。いいから経緯を説明して」
久しぶりに怒ってしまった私の勢いに、小熊くんも口ごもりながら説明を始めた。
彼が言うには、商品の調達が遅れ元々ギリギリのスケジュールだった。でも、2日前には届けられるはずでなんとかなると思っていた。しかし、商品の最終チェック段階で不良が複数でたため再チェックに回し、そこで遅れが出た。それでも昨日には出荷し夕方には届くはずだったのに、途中で大きな事故に巻き込まれてしまい到着が遅れた。今日の昼前には到着の予定らしい。
「先方に連絡はした?」
「ええ、担当者に」
「向こうは了承したの?」
ちゃんと伝わっていないから工場長が怒ったんだと思うけれど。
「ええ、昨日のうちに電話を入れて『スケジュールの変更をしておくから大丈夫です。昼には必ずお願いしますね』って言われたんです」
ふーん。
「わかった。トラブルが重なる事はよくあるから。それは仕方がなかったと思う。でも、こんなときはもっと緊密に連絡を入れなさい。朝一でこっちから連絡していればこうはならなかったでしょう?相手に言われる前に、こっちから状況説明をしなさい。いい?」
「はい。すみません」
「工場長には私が連絡するから、あとどのくらいで着くのか具体的な時間を出して」
「はい」
ギュッと拳を握り、うつむいた小熊くん。
先方にはちゃんと説明がしてあったのにと、言いたいんだと思う。
でもね、これが仕事なのよ。
働いていれば、理不尽なことなんて山ほどあるんだから。
「何してるの、すぐに動くっ」
「はい」
小熊くんは駆け出した。
***
「あれ?どうした?」
小熊くんと入れ違いに会議室を覗いた高田。
「商品が送れたらしくて、製造ラインが止りそうだって山通の田中工場長から電話があってね」
「そりゃあ大変だな」
「本当にね」
「手伝おうか?」
「いいわ。昼には間に合いそうだから」
「そうか、何かあったら言って」
「うん、ありがとう」
良かった、いつも通りの高田だ。
それにしても・・・
はあー。
思い切り肩を落とした。
さあ、後は部長に報告して、頭を下げてもらうしかない。
あー。もー。
こんな日に部長と関わりたくないんだけれど・・・
***
「部長、おはようございます」
広いフロアの一番奥のデスクで、窓を背にコーヒーを飲んでいた部長に声を掛けた。
「ああ、おはよう」
ニコリともせずに帰ってきた返事。
営業部長山川実。歳は50歳。一見人当たりのいいダンディーなおじさまなのだけれど、実はとんだ食わせ者。
利益のためなら平気で嘘をつくし、汚い手だってためらわない。
特に女の私が営業をしていることが気に入らないらしく、ことあるごとに文句を言われている。
「だから女は・・・」が部長の口癖。
「で、何の用だ?」
こんな時間に私が声を掛けるのは良くないことと感づいたみたい。
「あの・・・」
「こっちは暇じゃないんださっさと言え」
なかなか切り出せずにいた私に、不機嫌そうな声でたずねる。
「山通への納品に遅れが出まして、田中工場長からクレームが」
「はあ?なんで?」
「色々トラブルが重なったようで2日前の到着予定が今日の午前中になりそうです。午後には製造ラインが止ると連絡がありまして」
「ラインが止るって・・・ふざけるなよ。何でそんなことになるんだっ」
「いえ、午前中には届く予定ですので、実際止ることはないのですが・・・」
「今の時点で着いてないんだろ?」
「ええ」
「担当は誰だ?」
「小熊です」
「じゃあ鈴木、お前の責任だ」
「はい」
一応上司である以上言い訳はできない。
小熊くんはいい子だけれど、若さに任せて突っ走ってしまうことがあるし、詰めが甘い所もある。もう少し目を配っておくべきだったのかもしれない。
***
「大体さあ、お前たるんでるんじゃないの?」
「何でですか?」
「その服。遊びに行くのかって格好だぞ」
「・・・」
そんなことはない。と思ったけれど、言わなかった。
言えば余計に部長の機嫌が悪くなるから。
今は何を言われても、ひたすら頭を下げるしかない。
山通の田中工場長まで話がいってしまった以上、部長に頭を下げてもらうしかないんだから。
クソッ。
その後もグチグチと嫌みを言い、最後には「だから女はダメなんだ」と言う部長。
本当に大嫌い。
さすがに慣れたから泣きたいとは思わないけれど、悔しい。
「もういい、田中工場長には電話を入れておく」
「はい、お願いします」
深々と頭を下げて、私は席に戻った。
「大丈夫ですか?」
可憐ちゃんが寄ってきた。
フロア全体に聞こえていた部長の大声に、みんなも気づいている。
今だって遠巻きに私を見る視線が痛い。
「平気、いつものことだから。それより、この服って変?」
「いいえ、素敵です。でも、普段の一華さんとは違うかな?」
やっぱり。
ん?
チラッと高田と目が合った。
すぐにそらされたけれど・・・すごく恥ずかしい。
これも自業自得ね。
***
いつもの3倍は疲れた午前の勤務が終わり、昼食時の社食。
私はもうヘトヘト。
できればこのまま自分のベットに倒れ込みたい。
誰とも口をききたくない。
手の焼ける後輩も、意地悪な部長も、横暴な取引先も、みんな消えて欲しい。
私なんか介さずに3人で直接話した方が早いと思うんだけれど。
なぜかみんな私に言ってくるから、まるで私が1人悪者のようじゃない。
「一華さん大丈夫ですか?」
「うん」
本当に、心配してくれるのは可憐ちゃんだけだよ。
あれから、小熊くんからは無事に荷物が着いたと連絡があり、部長も工場長に連絡してくれた。なんとか大事にはならずに治まったんだけれど、何度も部長に絡まれた。
まあ、仕方ないかな。
部長に迷惑を掛けたのは確かだし、どれだけ悪態をついても仕事はきちんとしてくれる。そうでなくちゃ上場企業の営業部長なんて務まるはずがないんだから。
一昔前のサラリーマンと思えばいいか。
「本当に大丈夫ですか?顔色が悪いですよ?」
なかなか食事の進まない私を可憐ちゃんが心配している。
「ああ、昨日飲み過ぎてね」
「朝帰りですか?だからその服?」
うん。
頷いた。
「もしかして、彼氏ができました?」
「違うから」
「だって、一華さんらしくないし」
怪しいぞって顔をする可憐ちゃん。
さすが女の子は鋭いわ。
***
「あ、ここいい?」
トレーを手に高田がやって来た。
「はい、どうぞ」
可憐ちゃんが席を空けてくれて、私の隣に座った。
「あれ、鈴木はそれだけ?」
サラダのみの私を不思議そうに見ている高田。
「食欲なくてね」
昨日あれだけ飲んでしまって、まだムカムカしているんだから、食べられるわけがない。
ん?
高田はてんぷらうどんに小鉢とおいなりさん。
すごい食欲。
「はい」
っと差し出された小皿に入れられたおいなりさん。
「何?」
「サラダだけじゃダメだろう。無理してでも食えよ」
ええー、無理。
「いいよ。本当に食欲ないし」
「ダメ」
「はあ?」
私の向かいに座った可憐ちゃんもジッと見ている。
「どうせ朝飯も食ってないんだろ?」
「ああ。まあ、そうだけど」
「無理してでも食っておけ。午後から山通に行くんだろ?」
「うん」
きっと上司として心配してくれているんだよね。
深い意味はないんだろうけれど、何でこんなにドキドキするんだろう。
普段からよくある光景なのに、私が意識しすぎかな。
だって・・・昨日の高田は格好良かったから。
いつも冷静で感情的になることなんてない高田が、男に見えた。
それもとびきりワイルドで、獣みたいで・・・
ヤダ、思い出してしまうじゃない。
「どうしたんですか?顔が赤いですよ」
可憐ちゃんが首をかしげる。
「そ、そんなことないよ」
動揺しまくった私。
高田の目が『バーカ』と言っている。
ああぁー。
できることなら、昨日に戻ってやり直したい。
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