「殿下の側近が、私の傍にいるは良くないことだと思います」
「そうですね」
「でも、その話を殿下にしようとすると、なぜか殿下の耳は遠くなるんです」
「そうですか」
「だからグレイアス先生、耳が遠くならない魔法ってないんですか?」
「そうですね……って、あるわけないでしょう」
ノアの主張を聞き流していたグレイアスは、最終的に出来損ないの生徒に向けてため息を吐いた。
「あのですねぇ、ノア様。もう何度も言ってますが、魔法というのは全て精霊からの恩恵なんです。人間の都合で好き勝手にできるものじゃないんです」
「でも、耳の精霊からしたらちゃんと聞いてほしいって思うもんじゃないの?」
「この世にそんな精霊は存在しませんっ」
グレイアス先生が青筋立てて怒鳴ったと同時に、ぴしゃんと教科書を机に叩きつける音がしてノアは身をすくませた。
(あぁ……課題が追加されちゃうかも……)
己の無学を披露してしまった手前、それぐらいのことはされるだろうと覚悟したけれど、与えられたのは課題ではなく、グレイアスの「仕方がないなぁ」という呆れた笑みだった。
本日の先生は、とても珍しいことに機嫌が良い。
怒鳴られて教科書を叩きつけられたくせに、よくまぁそんなふうに思えるなんてと言いたいだろうけれど、普段なら授業以外のことを喋ろうもんなら、グレイアス先生は待ったなしで難しい課題を与えてくる。
しかし今日は、ノアの呟きに耳を傾けてくれた。何かいいことでもあったのか?
そんなノアの探るような視線を受けたグレイアスは、ガシガシと乱暴に髪をかきながら窓に視線を移す。
「あなたは、一体どんなつもりでここにいるんですか?」
「へ……え?は??」
魔法文字辞書と国史大辞典を間違えて手にしてしまったノアは、無駄に慌てながらグレイアスに目を向ける。
「……あのノア様。どうやったら、歴史と魔法の辞書を間違えることができるんですか?」
「ええーと……色が、一緒なもんで」
「あ、そうですか。で、あなたは、一体どんなつもりでここにいるんですか?」
すぐに話題を戻されノアは、きょとんとする。そんなに食いつきたいネタか?それ。
だってグレイアスは、何を隠そう、この仮初め婚約の発案者なのだ。逆にこんな自分に、よくもまあそんな無謀な話を持ち掛けたのか、こっちが聞きたい。
そんな気持ちからノアは手にしていたペンを置いて、真顔になる。
「あの……質問を質問で返して申し訳ないんですが、私、お仕事以外でここに居る理由ってあるんですか?」
そう尋ねた時のグレイアスの顔は、とても言葉で表すことができないものだった。
苛立ち、不満、焦燥、遣る瀬無さ。そんな感情が前面に溢れているけれど、それを凌駕するほどに何かに対して慈しみの感情を奥に潜めている。
「ありますよ。少なくとも私はあなたが来てくれて、とても嬉しかった」
「……はぁ」
自分の意思で来た覚えはないし、むしろここに来たのは誘拐という言葉しか当てはまらない。
でもグレイアスは、ここに来るまでの経緯を語っているのではないのだろう。
自らの意思でアシェルの傍にいることを、嬉しいと言っているのだ。
でもノアは、100パーセントのボランティア精神で居続けているわけではない。
無償、無期限で仮初の婚約者をやれと言われたら、即刻逃げ出しただろう。今頃、孤児院の裏の森で、新種のキノコを探しているはずだ。
きっとグレイアスもノアの気持ちをわかっているはずだ。だから目を逸らして、窓の景色を見つめている。
「私は、あのお方の孤独を救いたかった。あんな離宮で、埋もれて良いはずの御仁ではなかった。たった2時間だけ早く生まれただけのあの男が、王位継承権を得ることに納得できなかった」
しれっととんでもない秘密を暴露したグレイアスは、決して口が軽い人種ではない。
(え……2時間だけ早く生まれた……ってことは、アシェルとローガンは異母兄弟ってこと??)
信頼を置いてくれたからこその発言に嬉しさを覚えるが、ふと思った疑問を、ノアはグレイアスに確かめることができない。
肩口で不揃いに切られている彼の髪が、不自然に波打ち始めたから。
窓が閉じられている状態でそうなっているのは、魔力が漏れ出ている証拠。よく見れば、紫色の瞳もいつもより強く輝いている。
稀代の魔術師と謳われるくらい膨大な魔力を持つグレイアスは、今、抑えきれない感情のせいで魔力を制御できなくなっていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!