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「私はもう休むわね、ご馳走様」
気まずい雰囲気から逃げるように、手にしていた椀を洗うためキッチンへと向かう。岳紘さんは背中を向けた私に何も言ってはくれなかった。
結婚して一年経った今も、私たちは喧嘩すら出来ない関係のままなんだと思い知らされる。
洗い物を終えて寝室に向かうためにリビングを横切ると、そこに岳紘さんの姿はなかった。玄関の扉が閉まる音が奥から聞こえて、彼が外に出たことに気付く。やっぱりあの言い方は良くなかったかもしれない、謝ろうと後を追いかけたところで岳紘さんの話声が聞こえてきた。
「……ああ、言ったよ。あの時にお前に言われたとおりに、さりげなく聞いたつもりだったんだが」
言ったって、いったい何の話? 聞いたって、もしかして私への質問の事だったりするの?
岳紘さんが相手を『お前』と呼ぶのは珍しい、余程親しい間柄の人にだけのはずなのに。話している内容が気になって、私は玄関の扉に隠れたままその会話に耳を澄ませた。
「……は? お前がそうしろって言ったんだぞ、俺はお前を信じて慎重に行動してるのに」
彼が誰かを信じて行動する、それは私にとってはとても意外な言葉だった。良くも悪くも自分の考えを曲げないタイプの岳紘さんが、誰かに言われるままの言動をとるなんて。
どんな人が彼をそんな風に扱えるのだろう? 私の知っている人物だろうか、それとも……
「……分かってる、もう間違えたくないんだ。俺はやっと本当の愛に気付けたから」
時間が、一瞬だけ止まったのかと思った。緊張でドキドキと鳴っていた心臓が、その瞬間に凍ってしまったように感じて。
彼は……今、なんと言ったの?
自分の頭の中が真っ白になる。脳が……心がさっきの岳紘さんの言葉を理解することを拒否しているようで。胸が苦しくなって、一気に強い吐き気に襲われた。酷く酔った時のように視界がグルグルと回って、身体が大きくふらつきそうになる。
今、大きな音を立ててしまっては私が彼の話を聞いていたことがバレてしまう。必死にその状態から体勢を立て直し、岳紘さんに見つからないように静かにその場所を後にした。
おさまらない吐き気をトイレまでは我慢出来たが、そのまましゃがみ込み先ほど食べたものを全て戻してしまう。何もかもが、今は辛くて仕方がない。
温かくて美味しかった雑炊も、気にしてる素振りのスマホへのメッセージも。何もかもが私ではない誰かのためのように感じて。
「今さら、そんなのって……」
彼は私に一度しか触れてくれなかったが、それでも妻という立場の私を愛情はなくとも大切にはしてくれてると思っていたのに。岳紘さんには既に、特別に想う相手がいるというのだろうか?
あんな風に切なさを滲ませ話す彼を、私は知らない。さっきの言葉はいったい誰に向けられたセリフなのか、夫はどんな人を想い浮かべながらそう言ったのか。
……だけど、それが私ではないことだけは確かで。
こんなにも胸が痛くて息が苦しいのに、すぐに縋りつける相手すら私にはいないだ。この家で岳紘さんとどれだけ一緒に暮らしていても、私は一人には変わりないのだ。
このまま何事もなかったかのように寝室に行って眠ることなんて出来るわけがない。お手洗いから出るとスマホを片手にフラフラとした足取りでベランダに出る。
こんな状態の私の話を聞いてくれる相手は麻理くらいしかいない、震える指で彼女のナンバーを押して発信するがこんな時に限って留守電に繋がれてしまった。なんど繰り返しても流れるのは冷たい音声ガイダンスだけ、それが余計に余裕のない私を焦らせる。
――苦しいの! 誰でもいい、私を助けて‼
そう祈った瞬間、浮かんだ人物がどうして彼だったのか。土曜ではないけれど、もしかしたらあの場所に行けば会えるかもしれない。
この時には正常な判断が出来なかったせいもあるのかもしれない。もう夜遅い時間だという事は分かっていながら、私は財布とスマホを持ってそのまま家の裏口からこっそりと抜け出したのだった。
家から少し離れたコンビニでタクシーを呼び、ドライバーに行き先を告げて目を閉じる。僅かな可能性しかないと分かっている、それでも瞼の向こうにはただ一人を思い浮かべていた。