キャン!
5頭の猟犬のうち、2頭の首から血が吹き出した。
目の前で起こった現実に驚き、残る3匹が身を震わせた。
すぐに飼い主である高阪郎から逃げようと、猟犬たちは犬小屋の中へと入って行った。
「心配するな。おまえたちは殺さねぇ。強え奴は生き残り、弱えもんは消えるだけだ」
キャン、キャン……!
老犬の断末魔が前庭に響き渡った。
ここは山の中腹に建てられた古びた民家。
命を賭した犬たちの叫びは、周りの誰の耳にも届かない。
首紐が引きちぎれるほど暴れ回ったシェパードは、やがて力を失い倒れた。
舌を出し荒い呼吸を繰り返しながらも、その目は高阪伸太郎を追っていた。
……どうして?
2匹の老犬は、疑いなくそう言った。
忠誠心のたどり着く先が「死」であるなど、予想もしていなかっただろう。
「そんな目で見ないでくれ。これからはじまる地獄よりも、今死ねることを幸せに思うんだ。個体数が多くなれば、必ず分別され排除される。イノシシと同じこと」
ゴクリ。
残る焼酎をグラスに入れて飲み干した。
「これから進むべき道……」
高阪は犬小屋に隠れた3匹の狩猟犬を見た。
生き残った強い子どもたち。
精鋭たちよ。
「俺たちに今できるのは、この場所から逃げること。この地を去って、さらなる山奥へと向かう。いまだ銃も大砲もないような山林の奥深くにな。
しっかり付いてこいよ。おまえたちは俺が選んだ精鋭どもだから」
高阪は死んだ2頭の老犬をキッチンへと引きずり、そこで解体した。
ぶくぶくと沸騰した寸胴なべの中に、少し前までシェパードだった肉塊が投げ込まれた。
深い山奥に、廃棄となった材木工場がある。
そこは20年以上前、高坂伸太郎が働いていた場所だ。
中学卒業後に流れついた材木工場は、若い伸太郎にとって地獄のような場所だった。
高校へは進学せず社会経験もない伸太郎は、工場の先輩たちから激しいイジメを受けた。
「おまえのその肌、炭火で焼いたのか?」
「てめぇ、えだ豆みたいな目で何にらんでんだ?」
先輩たちは伸太郎の外見から性格まで、そのすべてを標的にした。
家庭環境のために祖母のもとで育った伸太郎は、まるで社交性をもたない子どもだった。
彼は友人を作ることができず、誰とも共感できない性分だった。
教師たちは裏で伸太郎を「悪魔の子」と呼んだ。
反応性愛着障害。
現在であれば、そう診断されるだろう。
反応性愛着障害とはアスペルガー症候群の一種であり、自閉症に似てはいるものの、しばしば後天性要因によって引き起こされる。
彼らは楽しいことには反応せず、悲しみや怒りの感情を調整するのが苦手だ。
母親は伸太郎が生まれてから一ヶ月も経たないうちに育児を放棄し、三ヶ月後には夫と息子をおいて家を出た。
残された父親も子育てを忌み嫌った。
伸太郎は父からの虐待を受けながらもかろうじて生き延びた。
やがて虐待に気づいた祖母が警察に連絡し、父親は拘束された。
その後、伸太郎は祖母のもとで育てられることとなった。
祖母は重度の聴覚障害を患っていた。
彼女は献身的な真心をもって孫の世話をしようとしたが、伸太郎の言葉を聞きとることができなかった。
ようやく虐待から逃れた伸太郎だったが、次に待っていたのはコミュニケーションの取れない養育者との生活だった。
伸太郎は生涯、友人を作らなかった。
そもそも友人を必要だと感じたこともない。
誰ひとりとして心を通わすことなく中学を卒業し、のちに就いた材木工場でも共感することができず、結局先輩たちのイジメにあった。
材木工場は重労働に比べて賃金が安い。
さらには山の奥深くに位置するため、市内への行き来も容易ではなかった。
社員たちは日々募るストレスと怒りを発散する、はけ口を必要としていた。
アルコール、タバコ、そして高阪伸太郎。
彼らは伸太郎を道具として扱った。
心の安定をはかるための遊び道具として。
殴打は日常的に行われた。
伸太郎を殴ることが罪であると認識する人間は誰もいなかった。
酒瓶を割ったり、タバコの箱を踏みつぶすことが罪でないように。
日に日に衰弱していく伸太郎を誰も気にかけてはくれない。
現場監督は病気がちな伸太郎に対し、生産性が低いと言って激しく責め立てた。
鉄拳制裁は常だった。子どもの頃からそうだったように。
人は生きている限り、苦痛を伴うもの。
人はぼくとおなじように、いつも痛みに耐えている。
彼がここで学んだのは、過去と何ら変わらない、苦しみ。
ただし、疑問はあった。
――なんであんたらは笑ってるの?
痛みに耐えるのは、それが人生だからだ。
その単純な論理の中に、笑顔など存在し得なかった。
人生とは、痛みと苦しみ。
あとは生命維持があるだけ。
じゃ、なんであんたらは笑ってるの?
死を決意した伸太郎は、断崖絶壁の先に立っていた。
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