※この物語はフィクションです。
実在の人物及び団体等とは一切関係ありません。
〈2話〉
「私は、だれ……?」
落ち着いて記憶を辿ろうとする。
ここに連れて来られる前、私はどこにいて、なにをしていたのか。
私はいくつで、学校に通ってるのか、それとも働いてるのか。
生まれた場所は、卒業した学校は。
友達は、恋人は、家族は、家は。
私の、名前は――……。
「わからない……。なにも、思い出せない……っ」
胸の中にあったすべてのものが去ってしまったように、私は記憶を辿る糸口さえ手繰り寄せることができなかった。
人生(すべて)を忘れて、自由を奪われて閉じ込められて、まるで世界中でたったひとりぼっちになったようだった。
誘拐犯は膝に頬杖をついたまま、なにかを探るように私の目を見たつめる。
「2+3は?」
「……」
「わからないなら答えなくていいけど、だんまりを決め込むのなら僕はきみを幼児扱いするよ」
「5!」
「正解。わお、幼児にしては頭いいね。じゃあ、次は……」
誘拐犯は私に他にも問題を出した。
小学校低学年で習うような簡単な暗算の問題、図形の面積を求める公式、私はすらすら答えることができた。
「……ねえ、さっきからなんなの?バカにしてるの?」
「じゃあ、24×456は?」
「……あなた、その問題の答えわかってる?」
「いいや?もう問題がなんだったかさえ忘れたよ」
ちょっとも悪びれることなくそう言った誘拐犯は、膝を立てたまま床に座る。
くつろいでる様子だけど、少し足を伸ばすだけで私に触れられる距離だった。
油断はできない。
「学力に問題はないみたいだね。算数ができるってことは、知識があって、それがちゃんと身についてる証だ。会話も成立する。おめでとう。幼児から小学生にレベルアップだよ」
「……はやく大人になりたい」
「ならなくていいよ、大人になんて」
そんなことを言う誘拐犯の年齢は不明だった。
寝転がったまま、ウサギのお面に隠されていない口元や、声、背格好を注意深く観察する。
シワや染みのない肌は世界中の女の子が羨むような白さで、私をおちょくる声はとても落ち着いていた。
見上げる体勢だったし、比較対象を持たない私にはわからないけれど、背は高いような気がした。
髪の色が薄くて、肌の色も相まってどこか外国人めいている。
でも訛りやたどたどしさはなかったから、日本人か、日本にうんと長く住んでると思う。
総合的に考えて二十歳前後、声からしても三十代ではなさそう。
「……あなたは、だれなの」
「僕は――……。この部屋の住人『ウサギ』さ」
さっきは聞き流された質問に、今度は答えがあった。
ウサギ。
それが苗字だって可能性もなくはないけど、きっと白いウサギのお面から考えた適当な偽名だ。
「あなたはなんなの?どうして私をここに連れて来たの?」
「御覧の通り、僕は誘拐犯だよ。それともきみの友達や家族は、人を誘拐したりする?」
「そんなこと聞いてるんじゃな……っ」
誘拐犯――ウサギは立てていた膝を崩して、私に手を伸ばした。
どこにも逃げることもできず、私はその手に肩を掴まれてしまう。
「やっ、やだ!触らないで……!」
声を上げて身を 捩(よじ)ると、ウサギの手が驚いたように離れて行った。
口を半開きにして、また首を傾げる。
そしてなにかに気づいたように、両手を上げた。
「きみを座らせようとしただけだよ。目線が合わないと話しづらいから」
「……信じられるわけ、ないでしょ」
「人を疑ってかかるのは良くないと思うよ?」
「人を誘拐する方が良くないと思うわ」
「じゃあ、誘拐じゃなくてナンパにしようか。へい、彼女。僕と遊ばない?」
「知ってる?知らない人について行っちゃいけないのよ」
お互いの心中を探るような睨み合いを切り上げたのは、ウサギの方だった。
「しょうがないな」と言って、ウサギは私の隣に寝転んだ。
人ひとり分のスペースを空けた場所で横向きになって、ウサギは私と目線を合わせた。
その口角が満足そうに吊り上がる。
ウサギも距離感も、なにもかも心地が悪くて、私は逃れるための言葉を探した。
「……どうして、『私』を誘拐したの!なんで『私』なの!」
たまたま『私』なのか、『私』を狙っていたのかで、状況は変わってくる。
「誘拐犯だよ?身代金目的に決まってる」
「記憶のない今の私に、その価値があるの?」
たまたま、突発的に私を誘拐したと仮定する。
その場合、おそらくウサギは私がどこの誰か知らない。
そうなると私から連絡先や家族の情報が引き出さないといけないけど、記憶のない私にそれはできない。
人質としての価値はないことになる。
けれど、ウサギは笑みを崩さない。
つまりは――。
「あなたは……私がどこの誰なのか、知ってるの?」
ある程度の計画性がある誘拐なら、私のことを調べてるはず。
私が誰なのか知ってるなら、家族に身代金を要求することができる。
あるいは、もう既にしてるのかもしれない。
むしろ私に記憶がないのは、彼にとっては好都合なのかもしれなかった。
「たとえきみが記憶喪失でも、ここから逃がすわけにはいかないよ。理由は3つ」
ウサギの手が伸びて来て、躊躇いなく私の頭に手を回した。
抵抗も虚しく強引に引き寄せられ、鼻の先にお面が掠める。
下を向こうとすると、顎を掴まれて無理やり視線を合わせられる。
「1つ、きみが本当に記憶喪失だという確証がない。きみが嘘をついてるのかもしれないからね。2つ、きみはもう僕に出会ってしまった。これは重大なことだよ。そして3つめ、僕もきみの言葉は信じられない」
感情のない声で淡々と言われ、私は唇を噛んだ。
「それに、きみは賢い。きみを解放したら、どうなるかわからない。……あ、ごめん。4つになっちゃった」
もう、私はここから逃げられない。
ここから出ても、どこにも帰れない。
どこにも……。
「そうだ。きみに、良いものを見せてあげよう」
「え?ちょ、や――」
急に起き上がったウサギに腕を掴まれて引っ張り起こされて、ソファに 凭(もた)れるように座らされた。
手足を縛られて床で寝てたせいで、身体が軋むように痛い。
「ちょっと待ってて」
そう言うと、ウサギは私の前を離れて部屋を出て行った。
随分と無防備な様子には拍子抜けだけど、呆けてる場合じゃない。
逃げるなら今しかない……!
ウサギが出て行ったドアの先に行ったら、鉢合わせしちゃうかもしれない。
でも、ソファの後ろの窓ならあるいは。
だけど――。
「きゃっ」
足首を荷物でも括るように厳重に縛られていて、普通に立ち上がることすら難しかった。
立てればジャンプして移動できるのに、と奥歯を噛みしめる。
それでも身体をくねらせて、這うように窓がある方へ行く。
こんな風に逃げ出そうとするところ見られたら、なにされるかわからない。
だから、はやく、はやく。
はやく、逃げないと。
はやく――。
「なに、してるの?」
〈続〉
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