※この物語はフィクションです。
実在の人物及び団体等とは一切関係ありません。
「なに、してるの?」
〈3話〉
背後から、声をかけられた。
おそるおそる振り向くと、布のかかった大きなものを持ったウサギが首を傾げていた。
「仕方ないなあ」
ウサギはもう1度私の身体を起こして、さっきと同じように座らせた。
言いつけを破って逃げようとした私を 咎(とが)めるでもなく、持ってきたものを私の前に置く。
薄いピンク色の布がかけられたそれは、人の身体と同じくらいの幅で、ウサギの胸ほどの高さがあった。
「これがきみだよ」
ウサギは持ってきたものの後ろでそう言うと、布を掴んで一息で捲る。
「これ……」
そこにいたのは、髪は長くてこげ茶色くて、目は二重で、鼻が小さい女の子だった。
化粧っ気のない顔で、白いワンピース。
二十歳前後の、どこにでもいそうな平凡な子だった。
その子はぽかんと口を開けて、間の抜けた顔で座り込んでいる。
「これが、私……?」
ウサギが持ってきたのは、曇りのない大きな鏡だった。
「僕はウサギ。そして、きみの名前は――……アリス。アリスって呼ぶことにするよ」
「アリス……?」
「呼び名がないと、不便でしょ?今からきみの名前はアリスね」
私の名前はアリス。
ウサギの口ぶりからして、きっと本当の名前じゃない。
なにが楽しいのか、ウサギは作り物の長い耳を揺らして笑った。
そしてウサギは右手を後ろに回し、左手を胸に当てて、恭しく頭を下げる。
「ようこそ、アリス。誘拐犯(ウサギ)の部屋(くに)へ」
ウサギは一度どこかへ出かけたらしいのが、玄関のドアらしきものが閉まる音でわかった。
しばらくして帰って来ると、いくつかのルールを私に言い渡した。
「ひとつ、食事は1日3度、この部屋で。ただしメニューにも味にも、あまり期待しないこと。ふたつ、トイレは許可制、お風呂は毎晩。みっつ、アリスは拘束されたまま、最初に目覚めたこの部屋で過ごすこと。まあ、鎖(それ)がついてちゃ、ここからは出られないしね」
ウサギは私を縛っていたヒモをナイフで外して、代わりのように鎖を持ち出した。
鎖は小指より少し太いくらいの幅で、真新しいものだった。
それが私の右足首にぐるぐると巻かれ、南京錠が取りつけられる。
鎖の逆端は傍の柱に繋がれていて、鎖の長さ分だけ多少動くことはできそうだった。
だけど、ドアやベランダまでは届きそうもない。
足を動かすたびに鎖はジャラジャラと硬質な音をたて、そうやって私に現実を突きつけてくる。
現実から目を背けるように、私は膝を抱えてソファーベッドに座った。
こうしてればウサギを見なくてすんだし、身体を丸めてる方が落ち着く。
だけど、もうずっと、頭の辺りにウサギの視線を感じていた。
なにが面白いのか、ウサギはまんじりともせずそうして私を見つめている。
根比べでもするように、私はいっそう縮こまってウサギの視線を受け続けた。
どれくらいそうしてたか、わからない。
この部屋に時計はあるけど、何時に目が覚めたかはわからなかったから。
唇を噛みしめて、いつ終わるかもわからない沈黙に耐え続けた。
でも。
「……どうしよ」
トイレに、いきたい。
トイレに行きたい気持ちをやり過ごそうと、足をすり合わせた。
ジャラ、と鎖が鳴る。
「どうしたの」
ウサギの平坦な声は少し離れたところから聞こえた。
なんでもない、と私は首を横に振る。
「そう?」
ウサギの決めたルールで、トイレは許可制ってことになってる。
トイレも、お風呂も、食事も、すべてウサギが牛耳っている。
ウサギの気分次第でルールは簡単に 覆(くつがえ)るだろうし、そうなれば私は生きていけない。
生命線を握られているのと同じで、これじゃ刃物を突き付けられているのと変わらない。
むしろ、もっと質が悪い。
「でも、なんでもなさそうには見えないけど?」
見えないものに心身を絡めとられ、ウサギに支配される。
この生活を受け入れることは、ウサギに服従することに等しい。
そんなの、絶対に嫌だ。
「ねえ、アリス。言 っ て ご ら ん ?」
膝から顔を上げて、ウサギの声がする方を見る。
ウサギは首を傾げて、口元にはかすかな笑みを湛えていた。
「……っ!」
この人、 わざとだ。
多分、ウサギは私がトイレに行きたいと思ってることに気づいてる。
「ね え 、 ど う し た の ?」
しらじらしい。
私は今、試されてるんだ。
ウサギの支配を受け入れ、恭順し、服従するか。
それとも――。
「アリス?」
目を瞑っても、頭を振っても、現実は変わってくれない。
私の足には鎖がつけられているし、ここは知らない場所で、私は自分が誰かもわからない。
記憶も自由も意思も奪われ、ウサギの支配を受け入れなければならない。
こんな屈辱的なこと、とても受け入れられない。
いやだ。
絶対にいや、なのに。
「……っ」
我慢し続けたせいで、下腹部が痛くなってきた。
「アリス」
いつの間にか傍に来ていたウサギは、ひんやりとした手で私の頬に触れた。
指の腹に頬を撫でられる。
「アリス、どうしたの?」
優しい声は、甘い罠。
透き通った無邪気な顔で、私が罠にかかるのを待っている。
「……トイレ、に、行かせてくださぃ」
1度囚われたら、逃げられなくなってしまう。
ウサギは「 仰(おお)せのままに」と、私の足元にしゃがみ込んだ。
ウサギの白い手がポケットをまさぐり、取り出した鍵を南京錠に差し込んだ。
カチ、という音がして、錠が外れ、
鎖が、ゆるむ。
「……このッ!!」
「――イタッ」
一瞬の隙を逃がさず、私はウサギを精一杯の力で突き飛ばした。
1度囚われたら、逃げられなくなってしまうからこそ、捕まるわけにはいかない。
尻もちをついて後ろに倒れ込んだウサギは、強かに頭を打ったらしく、床が心配になるような音がした。
ソファーベッドを飛び越えて、自由になった足で窓に駆け寄る。
もたつきながらも窓の鍵を外し、背後を気にしながら両手で窓を開けた。
裸足のままベランダに下り立ち、 欄干(らんかん)を掴んで身を乗り出そうとした。
「う、そ……っ!」
2階や3階程度なら、当たりどころが悪くないことを祈って飛び降りてやろうと思ってた。
下から吹き上げてくる風は強く、人や車はとても小さく見えた。
こんな眩暈がするような高さのここから飛び下りたら、私が辿り着くのはあの世だ。
「それなら……!」
マンションならベランダが隣と繋がってるかもしれないと、希望を込めて左右を見渡した。
ベランダは別の部屋とも繋がっていたけど、家ごとには独立してて、飛び移れそうにない。
「そんな……」
「脱兎のごとくって、まさにこういうことかな。あ、ウサギは僕か」
ひやりとした恐怖が、 鳩尾(みぞおち)を貫く。
すぐ後ろからウサギの声がして、私は欄干を握り締めた。
心臓が悶えるように脈打ち、動くことができない。
今にもへたりこんでしまいそうなのを、気力を振り絞って立っている状態だった。
目の前はあの世、後ろは地獄。
どちらを選んでも、選ばなくても、後悔と絶望しかない。
「ひとつだけ、自由になる方法があるよ」
地獄を用意した張本人が、まるで救いでも与えるようにそんなことを言った。
視線は下げたまま、ゆっくりと、振り向く。
ウサギの爪先が見えて、徐々に視線を上げていく。
足の爪先、足首、 脹脛(ふくらはぎ)、膝、手。
「……ひっ!」
ウサギの手に、ナイフが握られていた。
鈍く光る、その刃先は――。
〈続〉